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映画  NANA    中島美嘉 宮崎あおい


「NANA」を観てきました。原作の漫画がやたらヒットしたようですが、漫画は知りません。

(追記:イケてる宮崎あおい本&インタビュー



とりあえず、公式ページ↓

http://www.nana-movie.com/


この映画を観ようと思った理由。バンドものの映画が好き。バンドものってなんか熱くなる。せつなくもなる。才能の限界に悲哀を感じたり。ま、この映画はバンドものってほどじゃなかったんだけど。演奏シーンもちょっとだけだし。そこはちょっと残念。

で、もう一つのこの映画を観ようと思った理由。実はこっちが決め手。宮崎あおい。この人が出てるから。宮崎をはじめて観たのは青山真治の「EUREKA」。この映画自体が、ワン・オブ・マイ・フェイバリット。四回も観にいってしまった。

この映画での宮崎の存在感がすごい。言葉を失ってしまった少女役なんだが、いるだけで強烈。すずしい顔してるだけなのに。主演の役所広司を喰ってた。まあ、この映画は監督の青山真治のすごさがすべてなんだけど。4時間近くもあんなタラタラと、たいして台詞も音楽もなしでロングカット連発で、おまけに白黒に近いセピア色だけでやっちゃってるのに、まったく飽きさせない。別に奇怪な映像とかも別にないのだが、ずっとギスギスと張り詰めてる。もちろん、うわ!やられた!と思わせるような魅力的なカットは多数。ずっと引きこまれたままだった。これは自宅ではキツイかも。映画館じゃないと。


で、宮崎あおいだが、夜中に「ケータイ刑事 銭形愛」というおバカドラマに出てた。こちらは、5、6話観たのだが、なかなか面白い。たいしたことしてないんだけど、宮崎もおもしろい。なにげに、山下真司がいい感じ。(やっぱ山下といえば「スクール・ウォ―ズ」だけど。いまだに、「俺もラグビーやっとけばよかったかな」とか「今からでも遅くはないぞ!」とか「先生よぉ」とか「イソップ!」とか「俺のギターをぉ!」とか名台詞がときおり出てきてしまう・・・。ちょっと上の世代の人と「スクール・ウォーズ」の話すると止まらなくなる。)「ケータイ刑事」はシリーズで、銭形泪・銭形舞・銭形零があるのだが、正直、直視できない。主演が酷すぎて。だから数分も見てない。

宮崎は「害虫」でも主演なのだが、残念ながらまだ観てない。近所のビデオ屋にない!


で、いまさらながら「NANA」なんですが・・・、まあ、普通。たいして期待もしてなかったし。最悪だったらやだな、と思ってたから、その分意外に楽しめたかも。最初のころは、こりゃやばいなあ、最後まで耐えられるかなあ、とか思ってたんだけど。それなりに見れた。途中からは十分楽しめた。

最初のころが辛かったのは、脇役連中が頻繁に出てきたせい。そして脇役連中の魅力のなさ、演技の(いまさらですが)ヘボさ。松田龍平は最悪ではなかったけど。つか、松田が布袋に見えてしょうがない。そう見えるようにしたんだろうけど。アリエマセン!なのが平岡裕太。なんなんだあの酷さは。そこらの大学生連れてきた方がマシかと。というか、小泉孝太郎に見えてしょうがなかった。選挙前だったら、んだよ、自民党応援映画かよ、とかわけわからんこと思いそう。

しかしながら、若い俳優たちを、それなりに見れるレベルに演出してしまう、井筒監督のすごさを実感。「パッチギ!」の話ですが。


途中からは、完全に中島美嘉と宮崎あおい中心になっていったので安心して見れるようになった。中島は可もなく不可もなく。演技しないで普通にやって、と言われたような感じ。演出側がうまく中島を使えてた。けど、中島すごい!と思わされるところは全然ナシ。ときおり、熱い演技するけど、まあ、それはご愛嬌。


で、注目の宮崎あおいですが、それなりにって感じですかね。期待はずれでもないし、すげ~ってほどでもないし。ま、「うざキャラ」を非常に上手く演じてた。そこらの他の女優に比べりゃはるかにいいですね。あ~いう「うざいキャラクター」を魅力的に演じるのはなかなか難しいと思うんで。うざおもしろいキャラで、ただのコメディになってしまいそうなところを、さわやかに演じれるのはたいしたもん。それも、薄っぺらいキャラにならずに、ちゃんと深みがあった。このキャラをまた見てみたい、他の物語で見てみたい、と思わされた。当たり前ですが、上手に素人の中島をリードしてたような。

実は正直、最初のころは、平岡裕太(彼氏役)と絡んでるころは、ヤバイかも、と思ってしまった。こりゃ、宮崎、へっぽこのままずっといっちゃうのかなと。しかし、彼氏と別れるあたりから、ただのうざキャラから、宮崎のキャラに深みが加わった。物語的にも、失恋を経験して成長する女性を描いてるんだろうけど、それを宮崎が見事に演じていたともいえる。ただのうざアホキャラが、中島を包み込むような人間になっていく。それを露骨に気付かせるのでなく、そういえば、という感じでサラっと。宮崎は、もっともっといい監督のもとで見たいですな。


で、その監督。ん~ん。もうちょっとどうにかならんかったんですかねえ。もっともっといい映画にできたような。なんか散漫な感じがしましたね。中島の回想シーンが頻繁にあるんだけど、はっきり言ってダメ。というか、回想シーンは岩井俊二の「スワロウテイル」を意識してるでしょ。使ってる音楽も似てたし。でも、比べるのは岩井に失礼すぎ。「スワロウテイル」の回想シーンは映画に深みを与えてたけど、この映画の回想シーンは・・・。ただ突っ込んだだけ。みょーにキバッテんだけど、上滑り。ドキっとさせられるようなシーンは皆無。

CMでもかかってる曲はなにげに悪くない。HYDEのようだけど。(HYDEは、予告で流れた「ステルス」というどうしようもなさそうな映画の日本語版テーマソングをやっている・・・。)前から思ってたんだけど、中島はベタベタした曲ばっかやってないで、バンドでシンプルな曲でもやれば?と思ってた。なにげにいい感じ。

最初からむしょうに気になってたのが、中島と宮崎の住むアパート。なんだありゃ。原作でもそうなんだろうけど、欧米のアパートじゃん。日本にいるとあ~いうのに憧れるのはわかるが・・・。ちょっと残念。日本の等身大の青春映画なのに、非現実的な空間が・・・。欧米のアパートって、高級なところは別にして、実際に住んでみるとヘボいですよ。窓がツカエナイ。


とまあ、表面的なことをダラダラ書いてきたけど、それしか書きようがない。なんも深いもの感じなかったし、考えさせられるものはなかった。今日の女性の生き方、関係、友情などを象徴的に表現したとかそういうのもない。原作にはなんかあるのかもしれないけど。けど、青春物、女性の友情物としては悪くない。宮崎はなかなかだったし、見て損したとは思わない。というか、宮崎ナシじゃ無理だけど、こういうたいしたひねりもない、メジャーな日本映画でこれだけ普通に観れたのは珍しい。ということで、無理やり「NANA」アッパレ。



追記:

宮台真司曰く、

「過剰流動性に無自覚に棹さす段階」から「過剰流動性の不安に動転する段階」を経て「過剰流動性の不安に支配されない再帰的段階」へという政治的意味論の将来を映画『NANA』に見る

だそうです。そして、

主人公ハチ(宮崎)にとってナナ(中島)がロールモデルになる。ハチはやりたいことが何なのか分からず、男の視線が不安で右往左往するヘタレ。ナナは確固とした自分の世界があり、不安にかかわらず意欲に従って前に進む威丈夫。

・・・

主人公はロールモデルの観察を通じて、自らのヘタレぶりが、自己愛に基づく鈍感さに由来すると知り、ロールモデルのタフぶりが、他者に感染し得る敏感さに由来すると知る。鈍感だから右往左往し、敏感だから動じないという逆説。

この逆説をシステム理論の枠組で記述することもできるが、それはともかく、映画は「観察」による逆説への気づきまでを描き、原作はそれに続いて「行為」の変化を描く。即ち「鈍感だから右往左往するヘタレ」から「敏感だから動じない威丈夫」へ。実に象徴的だ。

何を象徴するか。二つある。第一に、90年代から引き続く形で、過剰流動的な社会が主題化されていること。第二に、過剰流動性に無自覚に棹さす生き方や、それに引き続く、過剰流動性が引き起こす不安に支配される生き方を、再帰的に観察する視点を得たこと。

「過剰流動性に無自覚に棹さす段階」から「過剰流動性に伴う不安に動転する段階」を経て「過剰流動性の不安に支配されない再帰的段階」へ。過剰流動的な後期近代に一度「都市型保守」へと振れて「都市型リベラル」へと揺り戻す、政治的意味論の将来を指し示す。

宮台真司 選挙結果から未来を構想するための文章を書きました



なるほどねえ。宮崎が中島と過ごし、中島を観察し、そして中島から影響を受けていくという部分を見逃してましたね。(そして、ついに、逆に中島に影響を与えるまでになる。)たしかに、宮崎はそういう視点を持ってましたね。独白するシーンとかはそうでした。

そして、「鈍感だから右往左往し、敏感だから動じないという逆説」というのも、まさにそうでした。宮崎は、最初は鈍感の極地でしたが、途中からは敏感な人になってきてました。そして、敏感になるにつれて落ち着いてきた。ん~ん、宮崎は上手く演じてましたねえ。

ただ、原作知らないとやはりなかなかわからないかなあと。言われりゃ、そうだ、と思うけど。

しかし、あらためて考えると、宮崎のキャラクターのポテンシャルはなかなかですな。


しかしながら、

「過剰流動性に無自覚に棹さす段階」から「過剰流動性の不安に動転する段階」を経て「過剰流動性の不安に支配されない再帰的段階」へ

というのは、青春を扱った物語の基本中の基本だと思う。しかし、「今」だからこそ、ますますこれが重要になってきた。宮台のいうところの「へタレ」がやたら増えてきて吼えはじめてる今だからこそ。そして、宮崎演じる「ハチ」はまさに、フリーターであり、恋愛も上手くいかず、その「へタレ」または「へタレ」予備軍のような生活をしている。



ちなみに、「へタレ」とは、フリーターやら恋愛下手な人のことじゃないですよ、不安に耐えられず、逆に強がって吼える人のことですよ。敵を探し、その敵を叩くことによってスカッとしようとしてるような人ですよ。はやい話が、ナショナリスティックになってつば飛ばしちゃうような人ですよ。




追記2

コメント欄で、秋日子さんに宮崎あおいの動画インタビューを紹介していただきました。

こちらからです。↓

http://www.ocn.ne.jp/toku/tj/

秋日子さん、ありがとうございます!


なかなか素朴で楽しいインタビューだったのですが、↑の宮台の文章に関連して、ちょっと「おお」と思ったエピソードがありました。宮崎さんは、今年の4月に中国に行っていたそうです。4月といえば、そう、反日デモです。宮崎さんは、ちょうどその時期に中国にいたそうです。

GENERATION TIMES』とやらの企画で、中国を訪問したそうです。

動画インタビューの中で、宮崎さんはこのようなことを言ってました。↓

一回だけ、中国の女の人に、中国から出てけー、と言われましたけど、それ以外はまったく、みんないい人だし、日本人だからといって、なにかをするわけでもないし、なにかいってくるわけでもなかったですね。

いや~、すごくいい経験したのでは、と思います。発言内容はいたって普通で優等生的なんですが、最近の風潮を考えるとキラリと光ってしまうのも悲しいですねえ。でも、ほんと、いい経験したと思いますよ。役者としても人間としても。ナショナリズムの問題を肌で、自分のこととして体験したのは今後の糧になるかもしれない。

ナショナリズムは、人類にとって20世紀最大の問題の一つでした。戦争をはじめ多くの悲劇の素になった。ナショナリズムについて多くの研究がなされた。我々はナショナリズムを克服できるかもしれないと楽観的だった時代もあった。

けど、サミュエル・ハンチントンじゃないけど、どんどんドンドン世界中のあちこちでこの問題が顕著になっている。21世紀に入ってもまたそうなろうとしてる。もうそういうのと無縁になるかもしれないと思われた先進諸国でも、ナショナリズムが亡霊のように現れてきた。過去の教訓はどうなっちゃったのよ?忘れちゃったんですかい!というような現象が先進各国でも起きている。ナショナリズムはまた最新の問題の一つに踊り出てきた。


宮崎さんは、そういう問題を肌で感じ、自分の問題として捉え、そしてそれを相対化する視線をしっかり持てたというのはすごくいい経験だったのではと。

宮崎さんには、「過剰流動性に無自覚に棹さ」さず、「過剰流動性の不安に動転」せず、「過剰流動性の不安に支配されない」を体現してほしいですね。



映画  「好きだ、 宮崎あおい」

宮崎あおい本&インタビュー
by mudaidesu | 2005-09-20 22:39 | 映画


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