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家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 2



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のつづき



マルクス主義フェミニズムの、「実践的帰結」は、第一に社会主義陣営に対しては、女性の自律的な運動を認めよとう要求であり、第二にフェミニズムに対しては、フェミニスト革命は、たんに心理主義や文化闘争でなく、「家父長制の物質的基盤」をくつがえす実態的なものでなければならない、という主張である。



私が「家事労働」を「女が他者生命の生産・再生産のためにする労働」に限定するのは、次のような理由である。たとえば単身の女が、自分自身の生命再生産のために行なう活動を家事労働とは呼ばない。

食事や睡眠を家事労働と呼ばないように、自己生命の生産・再生産一般は「家事労働」ではない。

女が「他者生命生産・再生産」のための活動を引き受けたとたん、女は市場内で二流の労働力に転落する。






マルクス主義フェミニストの答は明快である。第一に性抑圧には物質的根拠があること、第二にそれから男性労働者は利益を得ていること、第三に彼らにその既得権を捨てる気がないこと、第四に、歴史的には既得権を守るために男性労働者は資本および国家と共謀して積極的に女性を排除する役割まで果たしてきたことである。フェミニズムはたんなるヒューマニズムではない。それは「女性との人間的平等を求める男」がいかに少ないか、そしてそれは何故かという根拠を明らかにしてきた。「女性の闘争」が「資本と国家に対する闘いであって、必ずしも家長男性を主敵とするものではないことが確認できればよいという氏の主観的願望に反して、フェミニズムの「主要な敵」は男性であることを私は公言してはばからない。男との敵対を避けたい似非フェミニストの女や、女性との対決を避けることでフェミニズムの問題性を無化したい反フェミニストの男だけが「男と女は共通の敵に向かって共闘できる」と無邪気に信じたがる。



家族という自律的な単位が、伝統社会の遺制どころか近代の産物であることは、すでに多くの研究者によって指摘されている。


共同体の解体を促したのは「個人主義」ではなく「家エゴイズム」であった。


近代を「個人主義」の時代と額面どおりにとらえる近代主義の思いこみがある。「家」を前近代、「個人」を近代の産物と信じて疑わない人々は、「家と近代的自我との葛藤」を好んで近代人お心理的な主題にする。日本の近代小説が「私小説」の名のもとにくり返し描いてきたのはこの主題だった。だが、ここでも、フェミニスト文芸批評は、視点をみごとにくつがえして見せた。・・「私小説の主人公は、ほんとうに「家」制度の抑圧の犠牲になた被害者なのだろうか?」・・・。島崎藤村という、太宰治といい、私小説作家たちはいずれも例外なく彼じしん家父長の立場にいる男性であって、その家父長の支配下の女や子どもではない。彼らが主題にした「家」制度との葛藤とは、「家と近代的自我との葛藤」などではなく、実のところ「家長責任を背負いきれない弱い自我の悩みや煩悶」であった。そしてこの「家長責任から逃避する未成熟な自我」は、そのことによって家長支配のもとに置かれた妻や子どもをたっぷり傷つけており、かえって自分の加害性に無知かつ無恥であるという「目からウロコが落ちるような」発見に導かれる。

近代はしかがって逆説的ながら「個人の時代」というより「家族の時代」と言うべきであろう。




逆説的なことに、戦争は女性解放を促進する働きをする。戦争は男性的な諸活動の中でももっとも聖なる行為、女性の進出が最後になるべき男性性のサンクチュアリである。ところが、男性が戦場に出かけることによって、「銃後」では平時の性分業の体制がくずれる。田畑や工場をあとにした男たちに代わって、女たちも・・・「男のしごと」と見なされたことをした。


第一次世界大戦後、欧米諸国ではつぎつぎに婦人参政権が認められる。・・・。この背景には、戦争中の女性の国策協力への貢献を認めよという要求があった。


アメリカは第一次大戦によるダメージが少なかった。

そのアメリカが、国内の資本制の再編を迫られたのは、1929年・・大恐慌。
恐慌は戦争と同様、女性の地位の向上に貢献する。なぜなら、失業した夫に代わって、妻や娘が家計を支えることにようになるから。



資本制と家父長制の妥協

第一・・・夫を100%の生産者、妻を100%の再生産者に配当し、フルタイムの専業主婦を成立させた近代型「性別役割分担」を作り出したとするなら、第二次の妥協は、女性を賃労働者にして家事労働者、同時にパートタイム主婦でもパートタイム労働者でもある「主婦労働者」としての役割を二重化した「新・性別役割分担」を確立したのである。「主婦労働者」の発明は、資本制にとって得策だった。労働市場はその境界の外部に「労働力予備軍」を必要とする。

工業化の過程で、農村という労働力供給の後背地を自ら解体してきた資本制は、もはら農家の次男三男という出稼ぎ労働力に依存することができなうなっていた。

農村不況クッション・・・・出稼ぎ労働者は都会で失業しても、帰る場所がある。
家庭不況クッション・・・・主婦労働者の妻たちは、失職しても変えるべき家庭がある。


60年代以降のウィンメンズ・リブことII期フェミニズムが、女性に対する再生産へのこの文化=社会的強制力を告発の対象としたのも、十分な理由がある。この強制力から逃れる自由は、「中絶の権利」を求める闘争として女性運動の一つの焦点になった。これは、中絶を法律で禁止する国家に対して、それを法的な権利としてかくとくしようとする、国家と女性との間の闘いであった。<近代>国家が、国民の<私>生活--その核心に私事化された性と生殖がある--に無関心だ、というのは、とんでもない「神話」にすぎない。<近代>国家は、女の子宮という再生産資源の管理に、つねに強い関心を払いつづけてきた。それだからこそ「子宮を女の手に取り返そう」という「再生産の自由」の要求は、女性解放闘争の核心にあったし、かつこの要求は父権的なシステムのもっとも激しい怒りを招いたのである。



この「中断--再就職」後の「主婦--労働者」の生き方が、誰にとってつごうがいいかはすでに明らかである。中断--再就職の女の暮らしは、女本人につごうがよいように見えるけれども、その実、資本制と家父長制の双方にとってつごうがよい。資本制にとっては第一に結婚までの女性を回転の早い労働力として使い捨てるために、第二に中断--再就職後の主婦労働力を低賃金の非熟練労働力として買いたたくために。家父長制にとっては、第一に育児期に育児専従の妻を無償で確保でき、第二にポスト育児期に家事負担を負わないままに妻のエクストラインカムの成果を享受できるという利益のために。


もちろん育児という行為をマクロな社会システムへの効果の面からだけとらえるこの種の議論は、ただちにミクロな当事者の論理--母の実感・子の経験--から反駁を受けるだろう。とりわけ、育児期に女が育児専従の生活に入るのは、女のつごうではなく、子どものつごうのためなのだ、と。

女に、母としての献身と自己犠牲を要求するこの母性イデオロギーは、女は子どものために、自分のつごうより子どものつごうを優先するという崇高な動機から、育児専従の生活を送るのだ人々に信じさせる。この論理から「働く母親」は子どものつごうより自分のつごうを優先した利己的な母親だ、ということになるのは自然である。

この献身のイデオロギーはいろいろな粉飾をほどこされていて、たとえば母は自己犠牲の代わりに金で買えない崇高な価値、たとえば生命とのふれあいを得ることができる、という言説がある。この「崇高な価値」を、家父長制はいっこうに男性にすすめないのだから、このイデオロギーの虚偽性は明らかだが、イデオロギーの正当化のための言説はいくらでもつくり出される。


「女の経験を男の言葉で語る」ことではなく、「男のやっていることを女の言葉で相対化する」ことができたときに、はじめてマルクス主義フェミニズムの限界は、というより、資本制と家父長制のもとに置かれそのもとで定義された女性の経験は、それから脱してオルターナティヴを見つけることができるであろう。



つづく
by mudaidesu | 2005-09-15 01:36 |


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