社会科学における人間 大塚久雄

大塚久雄 1977年



諸個人の内部におけるいわば思想的凝固物を通して社会的に現われ、そして、集団全体の文化を性格づけているような、そういう人間の思想と行動の様式が人間類型


マルクス、ウェーバー・・・「ロビンソン物語」を評価






ウェーバー・・近代ヨーロッパにおける資本主義経済を主体的に作り上げていった人々の人間類型、そうした人々を内面から動機づけた精神、それを彼は「資本主義の精神」とよぶのですが、その「資本主義の精神」に照応する行動様式は、まさにロビンソンの孤島における生活のうちに現れていると考えていた。


ロビンソンの孤島での行動・・・すくれた経営者であり、忠実な労働者

ウェーバーは、ロビンソンの行動様式のなかにはすでに透徹した目的合理的思考が見られる、あるいは、彼の別の表現を使うと、形式合理的思考が


ロビンソンは、まずは神に感謝しますが、そのあと、孤島に漂着して以来一年間の生活は自分にとってどういうプラスとマイナスをもたらしたか、そのバランス・シート、貸借対照表をつくる

ロビンソン・・・呪術的な思考の痕跡がほとんど見られない、冒険商人的な非合理性から解放されている。伝統主義の非合理性からも解放されている

結局、「資本主義の精神」とは「ロビンソン的人間類型」のこと


経済学の理論形成のための前提、いわば認識のモデル、「経済人」・・・ロビンソン的人間類型、
マルクスもそう



ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」


同じく人間の行動様式とを類型化してとらえるにしても、それを単に外側の社会的な現われとしてだけではなくて、そういう行動様式を内面からささえる、あるいは、推し進める意識形態、あるいは観念形態、とりわけ倫理意識の問題をも含めて人間類型論を構成しようとする。



資本主義の精神とは何か


「資本主義の精神」の担い手たちのうちには、明らかに資本家と労働者、あるいは、企業家と賃金労働者、その双方が含まれている


ウェーバーの「資本主義の精神」の本質をなすものが営利欲とか、最大限の利潤の追求ではないとすると、それはいったいなんなのか。ウェーバーは、それは一つのエートスだと。近代の資本主義、とりわけその土台をなす産業経営とその合理的組織をそもそも作り上げた人々が、資本家といわず労働者といわず、すべて共通に抱いていたそういうエートスなのだと

「資本主義の精神」・・・隣人愛の実践と利潤の追求の二つの中心がある。そして、一つの中心から他の中心へと重点がしだいに移り変わっていく。後者に重点。

神による選びへの確信をえたいという熱心が、そもそも「世俗内禁欲」をささえていたのに、いつしかその宗教的熱情が力を失って、利潤の追求への熱心がだんだん力を増してくる。そして、両者の力がちに均衡し、いや、さらに利潤追求への熱心の方がむしろ前面に現れてくるようになると、「世俗内的禁欲」は、プロテスタンティズムの倫理から離れて、むしろ営利のためになっていく。こうして、「世俗内的禁欲」を中核にもちながら、しかも、営利そのものが自己目的であるようなエートスが生まれてきた。これが「資本主義の精神」→イギリス産業革命



儒教とピュウりタニズム

儒教のエートスにも、ピュウリタニズムのそれに劣らないほどの合理主義が含まれている。しかし、目指す方向がまったく異なってる。


ウェーバーは、ピュウりタニズムのエートスを「内面的品位の倫理」、それから儒教のエートスを「外面的品位の倫理」と特徴づける。「内面的品位の倫理」というのは、愛とか善意というような心の問題、そういう内面における純粋な動機から出発することになによりも重点。

「外面的品位の倫理」・・逆に、むしろ外側の形式とか儀礼とか、心の動きの結果として現れてくる外側の形の方を重視する

儒教は、合理主義も、究極のところで伝統主義、つまり伝統的な共同体的生活様式の無条件的存続という方向に向かっての合理化という性質をおびることになる。
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by mudaidesu | 2005-09-27 19:07 |


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