天皇制・入門

天皇制・入門 1990

赤坂憲雄 岡部隆志 斎藤英喜


朝日新聞 1988 9/28
昭和天皇・・闘病生活 
宮内庁長官が、陛下が長雨による稲の影響を心配しておられたことを明らかにした。
陛下は「雨が続いているが、稲の方はどうか」とおたずねになった。






王殺しを基底にもつ王権のシンボリックな構造を、山口昌男は四つの指標において定式化している。

1、王権は非日常的な意識の媒体として働く
2、「文化」の外延を破ることによって、王は「自然」なる状態に身を置き換え、そのような状態において初めて帯びる事のできる力を己れのものとする。
3、しかしそれは同時に、日常的な意識に対する脅威を構成する。王権は、それ故、常にその基底に反倫理性を持つ。
4、王権にまつわる罪の状況は、日常生活において堆積される生活への脅威を王権に転移させることを可能にする。いわば日常生活における災厄を王権の罪の状況と結びつけることによって、災厄を祓う役割を王権に負わせることを可能にする。


M・サーリンズの「外来王、あるいはフィジーのデュメジル」
サーリンズはフィジーの王の起源神話と即位儀礼の分析をつうじて、外来王をめぐる仮説を提起

「権力とは簒奪、力づくの主権の獲得であり、かつ支配的な倫理秩序の主権者による否定であるという二重の意味で、簒奪なのです。通例の継承よりも、簒奪こそがむし正当性の原理です」

海から陸へ、ヨソ者から土着へと移行することで、首長は象徴的に土地の民にとりこまれる。



「大嘗祭の本義」(折口信夫)のなかで、折口が「恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た」と語っている・・・・天皇の威力の根元の魂を天皇霊といい、この魂が天皇の身体にはいることではじめて、天皇は天皇としての威力を獲得した。

この天皇霊を付着させるための儀式が大嘗祭(鎮魂祭)・・折口


チベット ダライ・ラマが臨終のときを迎えると、その霊はチベットのいずれかの地の小児に化身・転生する。


山折がアジアの王権に関する、ひとつの概念構図を語っている。インドと中国における「東洋的専制」にたいし、チベットと日本における霊魂の転生にもとづく「神権制」という、対立の構図



天皇制の神話や伝説の虚偽をいかに暴いてみても、それだけでは天皇制の根拠を切り崩せない




中世
網野善彦・・・「聖なる」天皇と結びつくことで自らを「平民」と区別してきた非農業民・職人の世界が定住社会に圧倒されて、その「聖なる」特権が逆転し、社会的な差別の対象となっていく、といった「被差別民」と天皇との不可分の関係をあぶりだしていった。

私的な隷属から「無縁」であった中世の人々のその「無縁」の世界への期待を体現していたのが「天皇」そのものであった

天皇はけっして権力一般や暴力でもっと人々を支配していたのではなく、人々が現実の社会的な関係から「自由」でありたい、「無縁」でありたいという期待の地平を吸収していく「何か」を持っていたがゆえに、滅びようとしてもたえず不死鳥のように生き返り、生き延びてきたのではないか。


天皇の身体・・・玉体・・タブー


赤坂憲雄・・・天皇制を、本来は村落共同体の外部から強制的に入り込んだ<作為>的なものに過ぎないとし、<自然>的なものとする見方を拝している。

中沢新一・・・日本人が、超越性のテーマを問いつめようとするとき、いつもそれを吸飲し、捕獲し、中途にたちはだからおうとするのが、この天皇制のモデル。日本文化からの徹底的な孤立を覚悟しなければ、私たちはこの問題を徹底しながら生きることは出来ないような仕組みになっている。細胞の一つ一つにまでそれは棲みついている。


「天皇制」というタームが、共産党の32年テーゼによって初めて使われたように、本来、そのタームの意味するものは、革命史観によって打倒されるべき天皇制ファシズムとしての国家だった。

天皇制が近代のものか近代以前のものかと問う視点は、戦後天皇制が象徴天皇制として生き延びたとき、敗戦という国家の死滅に等しい事態にもかかわらず、なぜ民衆は天皇制を拒絶しないのかという問いの一つとして現れたと考えられる。

天皇制はたかだか近代のものに過ぎないとする考え方と、否、近代以前からその本質を問わなければならないとする考え方が出てくる。

吉本隆明・・・敗戦で死滅しなかった天皇制の根拠を、日本の国家成立以前にまで遡ることで明らかにしようとしている

近代国家と天皇制という二重構造ーーー近代国家建設の担い手たちは、天皇親政という政治形態は近代国家建設には合わないということを次第に認識していった。しかし、一方で彼らは、明治国家が、天皇を頭に戴かなければ国家としての体裁をなさないことをも認識していた。



GHQが否定したのは、民主主義国家の阻害となる天皇制国家の象徴である神のイメージだったのである。天皇制の本質まで撃つような神格の否定ではなかった。GHQは天皇制をなくすわけにはいかなかった

国民が衝撃を受けたのは、実際は、神が人間になったことへの驚きではなく、天皇が自分で神ではないと国民に向けて発表してというその事実への驚き、つまり、天皇にまつわる一種のタブーの解体という事実に自分たちを巻き込む時代の変遷を見たそのことへの驚きであったろう。そして、本当は、ここで、天皇は自分たちにとって一体どういう神であったのかという自問が起こるべきであったのである。しかし、いつしか、その驚きは、神が人間になったという、政治的な驚きへと変換され、その単純な図式の前に、天皇を本当に神として信じていたのか、信じたとしたら、それはどういう心理で、そしてその時の神はどのような神だったのかという重要な問題を問う契機が、次第に曖昧にされてしまったのである。




中国の新聞・・終戦の『聖断』が下せたのなら、なぜ初めに戦争をさせない『聖断』をしなかったのか

天皇の戦争責任を否定する論理とは、天皇は帝国憲法によってその国政に対して直接責任を負わない、したがって、たとえ開戦の詔勅に著名したとしてもそれは形式的なものである。終戦の決断については、当時の混乱した状態では国政の統治機関はほとんど機能せず、天皇が自ら判断を下さざるを得なかった。むしろそれは、むしろそれは、日本を危機から救った聖断として評価されるべきである、という論理になる。

開戦の責任については、天皇は憲法上国政の責任を負わないとする建前論で逃げ、それと矛盾する終戦の決断については、天皇の人間的な決断にスポットを当てることで逃げる

この論理は、当然のごとく、平和主義者として昭和天皇を美化せざるを得なくなる。つまり、天皇は戦争には反対だったが止めることはできなかった。


天皇に戦争責任があるとする立場は、天皇制擁護派からも・・・戦死者を鎮魂するのは、天皇以外にはない

三島・・・「英霊の声」



昭和天皇・再生の神話

天皇は、マッカーサーに対し、自分はどうなってもいいから国民を助けて欲しい。

これは伝説的影響力を持って、昭和天皇の戦争責任否定論の格好の話題。

この会見で、天皇は自分の命と引き換えに国民の分まで戦争責任を一身に背負ったのだから、ここで、天皇の戦争責任はすでに済んでおり、それ以上天皇の戦争責任を問うてはならないという論理。

ところが、この会見で実際、天皇が自分の戦争責任について何も語らなかったらしいということを、児島襄は明らかにしている。通訳の奥村勝蔵の記録から。

マッカーサーの回顧録は記憶によってかかれていて不正確・・・天皇発言の出所


しかし、この会見での天皇の発言の信憑性を問う声はさほど力を持っていない。なぜか、・・天皇の戦争責任をどこかで問わなければ気がすまない、あるいは、天皇に責任をとってもらわなくては死者が浮かばれないとする、民衆の決着の仕方が表出したから。天皇は死者の鎮魂のためにここでいったん戦争責任を負って処刑された。そして再生した。とでも思わなければならない民衆の心性が、この会見を、昭和天皇の死と再生の神話として作り上げてしまった。


松下圭一・・・「大衆天皇制論」1959年

ミッチーブーム・・戦中派が天皇観を独占していたこの時代に、その天皇観がすでに古びてしまっていることを、松下はおそらく最初に指摘した。「大衆天皇制」は、ある種の価値崩壊を告げる言葉であった。


林房雄・・・「大東亜戦争肯定論」1964年

「天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。」「三(人の)天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元師の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。『東京裁判』用語とは全く別の意味で『戦争責任』は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。」

天皇の戦争責任という重要な政治的文脈のなかで書かれた文章で、これほどまでに自分の政治的立場に矛盾してまで天皇の戦争責任を名言した文章は他にはほとんどない。

だから、誰にも戦争責任はあるし、だから、誰も他者の戦争責任を問えないのだ、これが、「大東亜戦争肯定論」を貫く論理

林房雄が駆使する論理は、関係の中で徹底して本音を重視するような、庶民の生活倫理のなかでの培われた論理なのである。だから、たいへん分かりやすいし、また、それだけごまかされやすい。

戦争とは、単なるバカ騒ぎとは違って、膨大な死者と、敗者の側には民族もしくは国家の存亡の危機を伴う。シャレではすまない


三島由紀夫・・・「文化防衛論」1969年

二つの絶対的な価値。一つは、文化を守るということの絶対的な無償性であり、もう一つは、文化概念としての天皇である。この二つはつきつめれば一つなのだが、三島はあえて二つに分けて説明した。なぜなら、文化概念としての天皇は今日ほとんど失われているから。従って、それは取り戻されなければならない。それを取り戻すことが、文化を守るという行為そのものなのである。

三島は天皇制を防衛するために死んだのではなくて、天皇制を作り出すために死んだのだということ

三島の悲劇は、その状況認識の正しさ故に、「文化概念としての天皇」を一から作りださなければならないと考えたところにある。


赤坂憲雄・・・「王と天皇」1988年

天皇制は、所詮「作為」に過ぎないので、その「作為」の構造は暴かれなくてはならないと述べるが、それでも天皇制が持続してきたその根拠としての天皇制の固有性という問題は現われる。

「幼童天皇」のイメージ。マッカーサーとの会見写真にそのイメージが現われたと指摘。民衆は、この写真から幼童天皇という深層のイメージを引き出され、天皇を許したとする

民衆がひそかに抱いてきた「幼童」に著者は強く思い入れることによって、「作為」でしかない天皇制に一方で囚われてしまうことのジレンマに耐えようとしているかのよう。一歩間違えれば、日本浪漫派的心情を引き寄せかねない。「排除の現象学」で著者は、現代の市民社会での差別が不健康に映り、かつての村落での排除という差別が健康に映るこのジレンマを述べた。つまり、現代の差別よりかつての差別の方がまだ救われるという判断と、いやそれは違っているという判断との衝突がもたらすジレンマなのだが、これは、天皇制を「作為」としてながら、一方で「幼童」として美化せざるを得ないジレンマ


坂本孝治郎・・・「象徴天皇がやって来る」1988年

戦後の昭和天皇の地方への旅行の多さ・・・戦死者の鎮魂のため

公的に戦争責任を負わなかった天皇は、身近に戦死者を出した遺族の心理的決済を済ますために、各地を巡幸しなければならなかった。




天皇は米を作る人?

天皇が象徴的に米を作る人であることを天皇制の側が表明しているわけであるが、このことは天皇制にとって本来的なことなのだろうか。


石田英一郎

北アジア的な、あるいは遊牧的な、ないしは軍事的な性格の強い民族が、たとえ人口は少数でも、非常に軍事力、政治力において卓越していたため、この短い時間に、急激な速度でもってそうした農耕民族の征服を行なった。しかし文化的にはやがて数的に優勢な先住農耕民の根強い文化とさまざまの形で妥協をとげざるをえなかった・・・


吉本隆明

この出自がすこぶる不明な<天皇>の勢力は、世襲的な祭儀の中枢のところで、あたかもじぶんたちが農耕社会の本来的な宗家であるかのような位相で土俗的な農耕祭儀を儀式化したのである。もともと<天皇(制)>の勢力が、わが列島に古くから土着している農耕族とかかわりのないものだとすれば、大嘗祭の祭儀において、かれらは農耕祭儀を収奪したということができる。またかれらが農耕をいとなむ地方的な土豪の出身だとすれば、かれらは農耕祭儀をきわめて抽象的なかたちで昇華させたといってよい。




沖縄

「天皇メッセージ」・・・1947年9月、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望している


沖縄県庁記者クラブ加盟16社は、海邦国体のため天皇が沖縄を訪問するならば記者会見をしたいとして、4つの質問項目を申し入れていた。その内容は、「一、大正10年以来、66年ぶりの沖縄御訪来についてのご感想、二、沖縄戦と戦後27年にわたる沖縄の異民族統治について、三、沖縄の異民族統治にかかわるとされる、いわゆる<天皇メッセージ>の真偽について」

この会見については、宮内庁側によってただちに「お断り」と拒否された。しかし、天皇は、この四つの設問への明確な釈明なしに、道義的に、訪沖などできるはずがなかった。

結局、「病気のため」とはいえ、天皇は、ついに沖縄を訪問することはなかった。
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by mudaidesu | 2005-11-25 19:29 |


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