「韓流」から「アジア流」へ・・・ぺ・ヨンジュンファンへの手紙


まっとうな批判に耐えてこそ「韓流」は「アジア流」に育つ・・・ぺ・ヨンジュンファンへの手紙

「論座」一月号 小倉紀蔵

<純粋なるもの>への回帰願望  ぺ・ヨンジュンという思想」への批判や反論がたくさんあったようで。まあ、予想通りだろうけど。それらに対して、そして韓流ファンの人たちへの小倉さんの熱い熱い返事とメッセージ。叱咤激励。以下ほとんど引用。



編集部にも、「ヨン様ファンは、みんな小泉なんか大っきらい」「みんな竹島問題にも関心を持って日本政府の対応を批判的に見ている。産経寄りの主張に賛同しているなどという決め付けはおかしい」などの手紙



11月号の論旨は次のとおり。

「ぺ・ヨンジュンファンは単なるミーハ―ではない。知的で真摯な人たちである。彼女たちは、今の閉塞し劣化した日本社会に対する思想的な解答を見つけたのだ。それは行き着くところまで行ってしまった日本おポストモダン状況に対して、もういちどモダンの価値を導入しようという動きだった。ぺ・ヨンジュンはひとことでいえばモダンな俳優なのである。この意味で今の日本にももうひとり、モダンの価値を導入しようという人物がいる。小泉純一郎だ。彼は自民党というプレモダンな姿勢への支持は、多くの日本人の心をとらえたという意味で、ぺ・ヨンジュン人気と同じなのだ。これはモダンで主体的な国家観にも通じる。韓流ファンに産経新聞的な歴史認識を持っている人が意外に多いのもこのためだ」


ぺ・ヨンジュンも小泉首相も、日本型ポストモダンが行き着いて、「主体」がほぼ完全に解体されてしまった状況の中で、確固たる「主体」として凛々しく立っている、という点では同じ。

同じ地点に立っていながら、あるイシュー(たとえば日韓関係やアジア観)に関しては、別の方向を向いている、ということ。


「モダンな主体」は自己の主張がぶれずに確固としていますので、「主体」どおしの主張がくっきりとしている分、対立的にもなりやすい

私のいわんとするところはあくまでも、韓流ファンには産経的な歴史観が<意外に>多い、その背景にはこういう図式があるのだ、ということ。


ただ、私の実感ですがすべての韓流ファンが「朝日」寄りかというと、決してそうではない。むしろ意外なほど「産経」寄りの考えを持っている人が多いのです。これは私が講演や対話を通じて得た認識。

「韓流好き→韓国好き→日韓関係を悪化させないよう首相は靖国参拝をやめるべき」という認識で韓流ファンは固められているだろう、という私の予想は、日本全国どこに行っても、ことごとくはずれました。むしろ、「韓流は好きだし、韓国にい関心はある。でも小泉首相も韓流スターのように毅然と日本の主張をいってほしい」と考えている人が意外に多かった。講演会などで、「小泉首相は靖国参拝をすべきか」と尋ねると、会場の半分近くの人が「そうだ」とうなずくということがよくあった。



私は04年に、「来年、韓流ファンは哲学的になる」と予言した。「韓国ってどうしてこうなの?」「日韓関係ってなぜこうなの?」という本質的な疑問を、「成長する韓流ファン」は持つに違いない、と思ったから。そして案の定、05年に、竹島問題や歴史認識問題を契機として、韓流ファンは哲学的になった。

今回は、「06年は、韓流に対する本格的な批評の年になる」と予言しておく

これまで韓流に関しては、あまりにも「よいしょ」の記事が多すぎた。韓流スターを誉めそやす記事や常軌を逸したレベルの甘やかし映画評など、極度にプラスの評価が増幅された情報が流され続けた。韓流に関するまともな批評はまだない、というのが実情。これでは韓流は一時のブームで終わってしまう。きちんとした批評活動を、多くの人が展開していかなくてはならない。そうやって鍛えられてこそ、韓流は日本や中国などの文化とフュージョンしながら「アジア流」にまで高まって普遍性を獲得してゆくはず。

「批評」はときに、「批判」という次元に高められる。

たとえばぺ・ヨンジュンファンが「家族」という概念に極度に吸引され、また韓流ファンの一部が「男らしさ」という価値にひたすらプラスの評価を下していることに関しては、フェミニズムからの批判も今後、当然あるべき。

また、韓国社会はミリタリズムと儒教とナショナリズムが三位一体となった社会。その社会から生まれた人間がもし理想的に見えるのなら、日本もそういう社会にしようじゃないか、という議論も当然出てくるし、それに対する反論も提起される
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by mudaidesu | 2006-01-09 17:23 |


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