想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行


べネディクト・アンダーソン


ホブズボーム・・・「マルクス主義運動と国家は、形式的にも実質的にも、国民的、つまり国民主義的(ナショナリスト)となってきた。この傾向が将来、消滅するであろうことを示す徴候はなにもない。」

かくも長きにわたって予言されてきたあの「ナショナリズムの時代の終焉」は地平の彼方にすら現れていない。・・・論争は続いている。ネーション、ナショナリティ、ナショナリズム、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。・・・・シートンワトソン・・「国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している。」


ナショナリズムの理論家たちは、しばしば、次の三つのパラドックスに面くらい、ときにはいらだちを覚えてきた。第一、歴史家の客観的な目にはネーションが近代的現象とみえるのに、ナショナリストの主観的な目にはそれが古い存在とみえるということ。




第二、社会文化概念としてのナショナリティ(国民的帰属)が形式的普遍性をもつーーーだれもが男性または女性として特定の性に「帰属」しているように、現代世界ではだれもが特定のナショナリティに「帰属」することができ、「帰属」すべきであり、また「帰属」することになるーーーのに対し、それが、具体的にはいつも、手の施しようのない固有さをもって現われ、そのため、定義上、たとえば「ギリシア」というナショナリティは、それ独自の存在となってしまうということ。

第三、ナショナリズムのもとあの「政治的」影響力の大きさに対し、それが哲学的に貧困で支離滅裂だということ。別の言い方をすれば、ナショナリズムは、他のイズム(主義)とは違って、・・・いかなる大思想家も生み出さなかった。この「空虚さ」の故に、ナショナリズムは、コスモポリタンでいくつもの言語をあやつる知識人には受けがよくない。


トム・ネアンのようにナショナリズムに同情的な研究者ですら、・・・「『ナショナリズム』は、個人における「神経症」と同様、近代発展史の不可避の病理であり、神経症と同じように本質的にあいまいでやがては痴呆症へと陥っていくものであって、広く世界に蔓延した無力感のジレンマに巣くった「社会小児病ともいうべき」ほとんど不治の病である」


国民(ネーション)とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの「最高の意思決定主体」として想像されると。


ゲルナー・・・ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ」

ゲルナー「発明」を「想像」と「創造」にではなく、「捏造」と「欺瞞」に


国民は主権的なものとして想像される。なぜなら、この国民の概念は、啓蒙主義と革命が神授のヒエラルキー的王朝秩序の正統性を破壊した時代に生まれたから


国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるから。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいった


無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。・・・これらの墓には、だれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている

こうした記念碑の文化的意義は、たとえば、無名マルクス主義者の墓とか自由主義戦没者の碑とかをあえて想像してみれば、さらに明らかとなろう。いいしれぬ滑稽さを感ぜずにはおられまい。それは、マルクス主義も自由主義も、死と不死にあまり関わらないから。一方、ナショナリズムの想像力が死と不死に関わるとすれば、このことは、それが宗教的想像力と強い親和性を持っていることを示す


これらの宗教が、病い、不具、悲しみ、老い、死といった人間の苦しみの圧倒的重荷に対し、想像力に満ちた応答を行なってきたことを証明。・・・マルクス主義をふくめおよそすべての進化論的/進歩主義的思考様式の大きな弱点は、そういった問いに対し苛立たしい沈黙でしか応えないことにある。・・・・宗教思想は、死者とこれから生まれてくる者との連鎖、すなわち再生の神秘に関係する。

啓蒙主義の時代、合理主義的世俗主義の世紀は、それとともに、独自の近代の暗黒をもたらした。宗教信仰は退潮しても、その信仰がそれまで幾分なりとも鎮めてきた苦しみは消えはしなかった。・・・・そこで要請されたのは、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換することであった。・・・国民の観念ほどこの目的に適したものはなかったし、いまもない。国民国家が「新しい」「歴史的」なものであると広く容認されているにしても、それが政治的表現を付与する国民それ自体は、常に、はるかなる過去よりおぼろげな姿を現し、そしてもっと重要なことに、無限の未来へ漂流していく。偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である。

わたしが提起しているのは、ナショナリズムは、自覚的な政治的イデオロギーと同列に論じるのではなく、ナショナリズムがそこからーーーそしてまたそれにあらがいながらーーー存在するにいたったナショナリズムに先行する大規模な文化システムと比較して理解されなければならない、ということ


わたしが基本的に主張していることは、国民を想像するという可能性それ自体が、古来の三つの基本的文化概念が公理として人々の精神を支配することができなくなったそのとき、その場所で、はじめて歴史的に成立したということ。その第一は、特定の手写本(聖典)語だけが、まさに真理の不可分の一部であるということによって、存在論的真理に近づく特権的手段を提供するという観念。・・第二は、社会が、高くそびえたつ中央ーーー他の人間から隔絶した存在として、なんらかの宇宙論的(神的)摂理によって支配する王ーーーの下で、そのまわりに、自然に組織されているという信仰。・・第三、宇宙論と歴史とは区別不能であり、世界と人の起源は本質的に同一であるとの時間観念。

この三つの減退・・・とすれば、友愛、権力、時間を新しく意味あるかたちでつなげよういう模索がはじまったとしても驚かない・・・そうした模索を促進し、実りあるものとしたのが、出版資本主義(プリント・キャピタリズム)・・・ますます多くの人々が、まったく新しいやり方で、みずからについて考え、かつ自己と他者を関係づけることを可能にした



宗教プロパガンダ大戦争・・・プロテスタンティズムは基本的にいつも攻勢に立った。プロテスタンティズムが、資本主義により創造され膨張していった俗語出版市場の利用法をよく心得ていたのに対し、反宗教改革がラテン語の砦を守ろうとしたから


有利な地位を占めて絶対君主たらんとする王たちが行政中央主権化の手段として採用した特定の俗語が、ゆっくりと、地理的に不均等に拡大していったこと。・・西欧中世にはラテン語の普遍性に対応する普遍的な政治システムが存在しなかった


積極的な意味で、この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった。

ここで、宿命性の要素は、決定的に重要。・・・資本主義にいかなる超人的偉業が可能であるにせよ、死と言語は、資本主義の征服しえぬ二つの強力な敵だからである。特定の言語は、死滅することもあれば、一掃されることもある。しかし、人類の言語的統一はこれまでもできなかったし、これからもありえない。そして、こうした相互了解の不可能性は、歴史的に、資本主義と印刷・出版が一言語だけを知る大量の読者公衆を創出してはじめて重要性をもつにいたった


無自覚な過程であった・・・しかし、ナショナリズムの歴史上よくみられるように、ひとたび「出現する」と、それは模倣さるべき公式のモデルとなり、さらには便宜的にマキアヴェリ的精神で意識的に利用された。


自由主義と啓蒙主義思想も、とりわけ帝国主義と旧体制に対するイデオロギー批判の武器を提供したという点で、明らかに大きな衝撃を及ぼした。私がここで提起していることは、経済的利害も自由主義も啓蒙主義も、それ自体としては、これら旧体制の強奪から守るべき想像の共同体の種類または形態を創造することはできなかったし、創造しなかった。・・・経済的利害、自由主義、啓蒙主義などは、視野の中心にある憧憬ないし嫌悪の対象に対立するものとしての新しい意識の枠組みーーーほとんど意識されてないでいながら、、その視野を規定し、それを通して我々が見る眼鏡のフレームーーーを提供するものではなかった。この特定の任務の達成のために、遍歴のクレオール役人と地方のクレオール印刷業者は、決定的な歴史的役割を演じた



公定ナショナリズムと帝国主義

19世紀、とくにその後半には、資本主義の産物であるのみならず、王朝国家の象皮病の産物でもあった言語学・辞書編纂革命とヨーロッパ内での国民主義運動の昂揚が、多くの君主に対し、文化的な、そしてそれ故に政治的な難問をますます突きつけるようになった。・・これら王朝の多くが拠って立つ正統性の基礎がナショナルとおよそ無縁だったから


これらの王朝は、緩急の差はあれ、本質的に行政上の目的から特定の出版俗語を国家語として採用したが、その場合、言語の選択は・・基本的には無自覚的な相続ないしは便宜上のもの


丸山真男・・・「ヨーロッパでは・・・従ってナショナリティの意識の勃興は初めから国際社会の意識によって裏付けされていた。主権国家間の闘争はこの国際社会の独立の構成員間の闘争であるということは自明の前提であり、さればこそ、グロチウス以来、戦争は国際法の中に重要な体系的地位を占めてきた」・・しかし数世紀にわたる日本の孤立は、・・・「そこでは国際関係における対等性の意識がなく、むしろ国内的な階層的支配(ヒエラルキー)の眼で国際関係を見るから、こちらが相手を征服ないし併合するか、相手にやられるか、問題ははじめから二者択一である。このように国際関係を律するヨリ高次の規範意識の希薄な場合には、力関係によって昨日までの消極的防衛の意識はたちまち明日には無制限の膨張主義に変化する。


公定ナショナリズムは、共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略



言語において・・・重要なことは、それが想像の共同体を生み出し、かくして特定の連帯を構築するというその能力。・・・ナショナリズムを発明したのは出版語。決してある特定の言語が本質としてナショナリズムを生み出すのではない。


20世紀のナショナリズムは・・・「モデュール」的性格をもっている。つまり、これらのナショナリズムは、一世紀以上にわたる人類の経験と、これまでに現われたナショナリズムの三つのモデルに頼ることができるし、実際頼っている。



ナショナリズムのほとんど病理的ともいえる性格、すなわち、ナショナリズムが他者への恐怖と憎悪に根ざしており、人種主義とあい通ずるものでもある、と主張するのが進歩的、コスモポリタン的知識人のあいだで(それともこれはヨーロッパ知識人に限ってのことなのだろうか)、かくも一般的となっている今日のような時代にあっては、我々はまず、ネーションは愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛をよび起こすということを思い起こしておく必要がある。ナショナリズムの文化的産物ーーー詩、小説、音楽、造形美術ーーーは、この愛を、さまざまの無数の形式とスタイルによって非常にはっきりと表現している。その一方、これに相当するような恐怖と嫌悪を表現するナショナリズムの文化的産物を見いだすことのいかにまれなことか。


「自然」なものにはいつもなにか選択を許さないものがある。「自然のきずな」のなかに、ひとは、「ゲマインシャフトの美」とも言いうるものを感知する。・・・そうしたきずなのまわりには、それが選択されたものではないというまさにその故に、無私無欲の後光がさしている。


今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺し合ったということよりも、途方もない数の人々がみずからの命を投げ出そうとしたということにある。・・・究極的(自己)犠牲の観念は、宿命を媒介とする純粋性の観念にともなってのみ生まれる。
[PR]
by mudaidesu | 2006-01-11 23:59 | ナショナリズム


<< 護憲と印象と布教 メインページ イラク人質問題 11  自己責任 ② >>