<至上の価値>と<愛国の源泉>


お玉おばさんに「軍隊は何を守ってくれるんだろう??」というエントリーをTBしていただきました。ちょっと思ったことを書いてTBします。テーマがズレまくりですけど。

元自衛官、潮 匡人さんの「常識としての軍事学」という本から、お玉おばさんが引用した部分↓。


日本の「国家目的」とは何なのでしょうか。端的に、自衛隊は何を守るのか、と言いかえても良いでしょう。それは国民の生命・財産に決まっているではないか。そう考える人もいるでしょう。(小泉総理の諮問機関である「安全保障と防衛力に関する懇談会の報告」もそう考えました)法令上の正解は「平和と独立」ですが、軍隊は何を守るのかと言い換えるなら、その答えは国民の生命・財産ではありません。それらを守るのは警察や消防の仕事であって、軍隊の「本来の任務」ではないのです。

ならば軍隊が守るものとはなんなのか。それは国家目標の上位にあるもの。国家目的という言葉がしっくりこなければ、国家にとって「至上の価値」と言い換えても良いでしょう。「我々だけの自衛隊」(松原正、展転社)は「国家にとっての至上の価値とは何か」と提起した上で、「それは 國體である。 國體といふと眉を顰める向きもあらうから文化であると言ひ直しても良い」と解き明かしています。「伝統文化」と言い直してもよいでしょう。たとすれば、その中身はいったい何なのか。日本の皇室伝統が無縁でないことは明らかです。






「正論」あたりに書いてる文章くらいで、この人の著作は読んだことないけど、ようするに、潮さんは「右翼」。良い悪いじゃなくて、右翼ってのはそう考えるってことだと思う。論理を超越する崇高なものがある、みたいな。「至上の価値」が。天皇なんてまさにそう。天皇の崇高さなんてロジックみたいなチンケなもので説明できるわけがないと。

これは何をもって「愛国」とするかの問題でもあると思う。右翼の愛国は潮さんの言うようなこと。


ここで思ったんだけど、「愛国」は、その国の「近代(の栄光?)」(近代国家の建設過程)をよりどころにしてたりする。アメリカなら独立宣言と合衆国憲法(自由と民主主義)。フランスならフランス革命や人権宣言(自由平等博愛)。

で、日本なら大日本帝国・明治憲法、みたいな話になるのかなと。そんでもって、それが「天皇」やら「国体」やらになるわけで。

戦後日本では、日本国憲法が体現する「平和と民主主義」みたいなかんじで憲法愛国的なものがあった。でも、右翼の人はやっぱり、愛国の参照先を「1945・8・15」以前に求めたいのかなと。だからこそ「歴史の見直し」に熱心。

「戦前を参照!」なんて、本心はそうなんだけど、堂々とそう言いづらいところもある(「つくる会」会長の八木さんなんて、かなり堂々と著作で言ってるような気もするけど)。実際のところ、それは不可能ってことを理解もしてるし。そこが戦後日本の右翼のツライところ(その不可能性こそがロマンなのかもしれないけど)。


小熊英二がこんなこと言っていた。↓


島田さんは、憲法以外に日本の独自性をうたう材料として、保守派が何を掲げられるのかというと、天皇しかないと言われましたね。しかし戦後の日本にとって、これもかなり苦しかった。

というのも、あのマッカーサーと並んだ写真を公表してしまった。あれは、もう天皇を掲げてみたところで、絶対にアメリカより低い位置にしか行けないということを、日本国民全員に宣言したようなものです。戦後日本の保守派は、こうした点からも、ナショナリズムの形成に失敗したんだと思います。

実際に、1953年には、日米交渉でアメリカに要求されて、防衛力の増強と愛国心の育成を約束させられていたりもする。

対話の回路 小熊英二対談集1   村上龍 島田雅彦


「武蔵」の生き残り、渡辺清がこんなこと書いてた。↓


天皇がマッカーサーを訪問(9月27日)。・・新聞にも五段ぶちぬきでそのときの写真が大きく出てる。・・・・

その男(マッカーサー)にこっちからわざわさ頭を下げにいくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に敗れたからといって、いや、敗れたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではないか。まったくこんな屈辱はない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかしい。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたたまれぬほど恥ずかしい。

マッカーサーも、おそらく頭をさげて訪ねてきた天皇を心の中で冷ややかにせせら笑ってたにちがいない。軽くなめてかかったにちがいない。その気配は二人の写真にも露骨にでていいる。モーニング姿の天皇は石のように固くしゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがっている。足を開きかげんにして、「どうだ」といわんばかりに傲慢不遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぽな主人にかしずく、鈍重で小心な従者といった感じである。

だが、天皇も天皇だ。よくも敵の司令官の前に顔が出せたものだ。それも一国の元首として、陸海軍の大元師として捨て身の決闘を申し込みに行ったというのなら話はわかる。それならそれで納得もいく。・・・それくらいの威厳と気概があってほしかった。

・・・いずれにせよ天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、適の前にさながら犬のように頭をたれてしまったのだ・・・それを思うと無念でならぬ。天皇にたいする泡だつような怒りをおさえることができない。

おれにとっての<天皇陛下>はこの日に死んだ。・・・

おれのこれまでの天皇にたいする限りなき信仰と敬愛の念は、あの一葉の写真によって完全にくつがえされてしまった。

砕かれた神  ある復員兵の手記


この渡辺もそうだけど、僕が思うに、戦後日本のナショナリズム(反米愛国)の行き場は左翼側だった。後に現われる一部の数少ない反米右翼以外、日本の保守派や右翼ってアメリカの庇護のもとにあった。ある意味、かわいそう。ブッシュがこの前来日したとき、「歓迎!ブッシュ大統領」みたいなことを書いていた街宣車の写真(見つからない)を見たときには、ある意味、すがすがしい思いがした。



潮さんに戻るけど、極端な話、潮さんの言葉の裏側にあるのは、いかにして兵士に死んでもらうか、だと思う。何のためなら、兵士はすすんで死ねるか。いかにして兵士の心を奮い立たすことができるか。そのために、より美しく価値のあるものを提示してやらなければいけない、みたいな。いかに美学を、ロマンを提示してやれるか。これは、同じような前提を共有しない側からすれば欺瞞に思えるけど、それを共有する人からすれば、それこそが兵士のため。兵士に「誇り」や「喜び」を感じてもらいたいと。兵士への愛情。


最近読んだべネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」にこんなことが書いてあった。↓


国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるから。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいった・・・

無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。・・・これらの墓には、だれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている・・・

こうした記念碑の文化的意義は、たとえば、無名マルクス主義者の墓とか自由主義戦没者の碑とかをあえて想像してみれば、さらに明らかとなろう。いいしれぬ滑稽さを感ぜずにはおられまい。それは、マルクス主義も自由主義も、死と不死にあまり関わらないから。一方、ナショナリズムの想像力が死と不死に関わるとすれば、このことは、それが宗教的想像力と強い親和性を持っていることを示す・・(メモッたんで引用不正確な可能性あり)

想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行


潮さんの話よりははるかに一般的な話だけど、たかが「想像力の産物」だけど、されど、ってところは同じかも。右翼の「崇高ななにか」「至上の価値」ってのも同じ性質のもの。幻想だけど、あまりに強烈。潮さんは、その「至上の価値」とやらを「想像の共同体(ネイション)」より『上位』にあるものとしてイメージしているようだけど。 

↑に戻るけど、その『上位』にあるものはアメリカの「自由と民主主義」みたいなもんかな。「自由と民主主義」も「想像の共同体」より『上位』にあると思うし。というか、その『上位』に位置するものは、「想像の共同体」をより想像しやすくするというか、美化したり強化したりするための媒体として機能するのかな。

日本の兵士はその「至上の価値」のために死ぬ(潮さんによれば)。アメリカの兵は「自由と民主主義」のために死ぬ。その二つを通して、それぞれの「想像の共同体」をイメージするみたいな。ただ、いっしょにするのに無理があるのは、前者は論理じゃなくて右翼的なんだけど、後者は論理で左翼的って違いかな。戦後日本の「平和と民主主義」も後者の類かな。



大貫恵美子の「ねじ曲げられた桜」という本を読んだ。この本は、特攻隊として死んだ5人の若者たちの日記を分析してたりする。この5人の知識と知性のすごさに度肝を抜かれた。読書量がハンパじゃない。

そして、彼らは「何のために死ぬのか」について悩みまくる。「死を運命づけられた特攻隊員」である自分の死の意味を探し求めた。マジでものすごい。
 
この5人は、国家によって用意され美化された「天皇即国家のための犠牲」に価値を見出し、死んだわけではない(それぞればらつきはあるものの)、と大貫は言う。強烈な「愛国心」ゆえだが、彼らの「愛国心」は「グローバルな知的潮流を源泉とする」ものだと。(新しい日本のために、日本の敗戦を望みさえした者も。)


ナショナリズムや愛国心というものは、対外交流を持たない排他的国民によって産出されたものというイメージとは全く反対に、グローバルとローカルの活気溢れる交流の産物、つまりコスモポリタニズムなのである

とまで大貫は言ってる。


「国家のために死ぬ」の意味づけは人それぞれ。僕らは普段、そんなことを自分のこととして考えない。巷の威勢のよいナショナリストたちもそうだと思う。けど、兵士をやってる人たちはそうじゃない。自分のこととして、常日頃からいろいろ考え悩んでいるだろう。潮さんなんかは、彼なりにその意味づけを手伝ってやりたいと思っているのかなと。思いっきり好意的に考えると。もちろん、僕は潮さんとはまったく相容れないけども。


ガーと書いたんで、わけわからないエントリーになっちゃってるけど堪忍。長いし。
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by mudaidesu | 2006-01-17 05:20 | ナショナリズム


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