チンポや姜尚中やナショナリズムや近代とか


おもろいネタがあった。「美しい季節とは誰にも言わせまい」さんの「ナショナリズムはちんぽこである」。

姜尚中と森巣博の「ナショナリズムの克服」からのネタ。以前その対談本読んだ。「オレのちんぽこ論」はおもろいんだけど、姜の「ナショナリズム否定」みたいなのはどうなのかなあとちょっと思った。



わかるんだけど、やっぱ、ナショナリズムを肯定というか、前提にしたところからはじめないとキツイかなあ、とか。ナショナリズム完全解体は不可能だと思うし。僕自身、ときたま「へタレ・ナショナリスト」を自称してるし。小熊英二に言わせれば、「やめちゃってる」上野千鶴子(「「ネットで広がる愛国心」 by 筑紫哲也のNEWS23」)でさえ憂国ナショナリストだし(「対話の回路 小熊英二対談集3 赤坂憲雄 上野千鶴子 姜尚中」)。

このへんのジレンマは、近代主義的リベラルとポストなんとか系の問題でもあるような。


成城トランスカレッジ!」さんからのネタ。リンク先(レポ)がおもしろい。宮台真司は「亜細亜主義」と「天皇」を提示する。大塚英志は「戦後民主主義」と「憲法9条」を。東浩紀や北田暁大は提示しないし(できない?)、提示する宮台の「あえて」の戦略を「転向」と批判し、そういう「再近代化」戦略はとらない。宮台好きな僕だけど、ここでは宮台・大塚よりも東・北田の方にシンパシーを感じてしまう。自信を持ってコミットできるものは当然ないし、「あえて」コミットするものもない。


ついでに、「日本人の劣等感と優越感? & 欧米リベラル」にTBいただいた「リベラルの復権に向けて」さんがこんなこと言ってた。


なぜ、ポストモダンではダメか、ということになるのですが、私としてはやはり、現実の政策を選択する際、どうしても秤を持った「正義の女神」が登場してこなければならないというジレンマによるのだと思います。「あれか、これか」の選択肢に立たされたとき、ポストモダンは無力です。

私も宮台真司の支持者です。つまり、私もまた、ネオリベやナショナリズムを批判するには、ポストモダンだけではダメで、ポストモダンを通った近代主義がないとややキツイのではないかという判断をしています。

さて、どうしたものか・・・


「世に倦む日日」さんのポストモダンへの憎悪と怨念は、恨みでもあんの?ってくらい凄まじいが、「<純粋なるもの>への回帰願望  ぺ・ヨンジュンという思想」の議論とムリヤリ合わせることも可能。ポストモダンの蔓延が、ネオリベやらナショナリズムやら韓流やらの大勝ちを招いた、みたいな。「リベラルの復権に向けて」の方はポストモダンをポジティブに評価しながらも、戦略としてリベラルを選択するという話。


これに関しては、regretさんがこんなこと言ってた。


ポストモダンって「実存してます・・・・!!!」みたいな高揚感がないし、盛り上がりを潰しちゃうんですよね。んで、相対化の地平でじっとしてろという。司馬史観とか国民主義が大好きな人にとっては「物語」的じゃない。ミーハ-じゃない。・・・

ポストモダンはもともと国民主義とか福祉国家とかあらゆる構造からも抑圧を感じたり零れ落ちてくるものを救い上げたりする。フーコーがゲイだったように、障害者やホモセクシュアルの人々にとっては光明だった。そしてマイノリティとマジョリティをぶつけ合わせて表層を解体するから、民主主義なんかよりもはるかに人々を解放する学問だと思います。ポストモダンにとって相対主義というのは物事の成就であると思うんです。

「後藤田 野中 徴兵制 野田 その他適当」のコメント欄


ちなみに、北田はポストモダンじゃなくてリベラルだよね?


「リベラルの復権に向けて」さんが言う「キツイ」ってのは、高橋哲哉の「靖国問題」で思った。高橋は、国立追悼施設が第二の靖国になる可能性を指摘し、国立追悼施設にも反対する。まったく同意。なんだけど、ムリ。それじゃあ政治的には勝負できない。知識人だからそれでいいし、正直だとは思う。加藤典洋の「敗戦後論」への高橋哲哉の批判(この論争については検索するとたくさん出てくる)でも同じような感想を持った。高橋の加藤批判にはまったく同意なんだけど、高橋は厳しすぎと思った。正しくても、それじゃ勝負できないと思った。



姜に戻るけど、「オレちんぽこ論」とか言ってナショナリズムをバカにしながらも、その本で森巣から「虐げられてる側のナショナリズムは肯定する」みたいな発言を引き出して、「在日」である姜は、「ほっとした。そう言ってもらえてうれしい」みたいなことを言っていたような。この話は、「窪塚洋介と平成ネオ・ナショナリズム・・・」のコメント欄のアメリカ黒人ポップ・カルチャーの話に通じると思う。

おまけに、国会で自分の「日本へのロイヤルティ」を「あえて」語ってる。→「姜 尚中



んでもって、姜尚中と宮台真司の話だけど、宮台が共著のまえがきでこんなことを書いている。↑の「ジレンマ」の話に繋がる。立ち位置の相違の問題。


姜さんの近著『反ナショナリズム』『ナショナリズムの克服』・・・を読むと、ポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズの路線に則って「国民国家」の幻想性を糾弾していらっしゃり、確かに私の立場と違うと思えました。

私の立場は、国民国家の幻想性は、今や「新しい歴史教科書をつくる会」の面々でさえ踏まえる常識であり、むしろそれを踏まえた上、市民の利益になるように国家を操縦するべく、国家に徹底的にコミットする意欲をかき立てることこそが必要だ、というものです。 ・・・

実際にトークしてみると、思想内容が先鋭に対立するというよりも、戦略的な力点の置き方がやや違うという感じになりました。・・・

ただ振り返ると、元々私は「国民国家の閉鎖的な幻想性を解除せよ」との主張に反対しておらず、それを前提に「国民国家の閉鎖性を解除するべく国家の操縦に徹底コミットせよ」という主張こそが「今は必要だ」と言ってるのだから、妥当な形かもしれません。 ・・・

「国家の幻想性を認識せよ」という主張と、「幻想的な国家を操縦せよ」という主張とでは、明らかに主張の目的が違います。前者は「認識」が目的であり、後者は「操縦」が目的です。 ・・・

姜尚中・宮台真司『挑発する知』双風舎の、まえがき



ところで、「オレのちんぽこ論」だけど、僕としては、最近の日本のナショナリズムは「他人のちんぽで相撲をとる」ってところがあるような気がする。自分のちんぽの話じゃなから、余計に堂々とできる、みたいな。気恥ずかしさまるでなし、みたいな。自分のちんぽ自慢をおおっぴらにやる奴もあんまりいないだろうし。

結構他人事みたいなところもある。無責任に放言しちゃうというかなんというか。自分が命を賭けて闘うのは嫌だけど、「他人(アメリカ兵や自衛隊員)が生命のリスクを背負って、自分が気に入らない相手を懲らしめること」なら大歓迎しそうな人が結構多いのではないかと。あくまで自分に被害が及ばない「限定的」な戦争・暴力なら大歓迎という人が。自分が嫌いな相手が対象ならなおさら。どうせ、自分に不利益ないだろうという確信がある。戦争になっても、死ぬのは米兵や自衛隊員で、自分じゃないし、みたいな。安全圏にいるという自覚があるからこそ。切実さを感じない。


それに最近の日本のナショナリズムは、「オレのちんぽこすげーぞ」じゃなくて、


「日本民族は優秀なんだ!」ってノリより、「中国人・朝鮮人ムカツクー」→「中国人・朝鮮人は異常」→「日本人はまとも」みたいなノリでしょうか。

個人的には、「日本人は優秀なんだ」という言説はいいと思うんですよ。ただ、やり方の問題で、↑のように、中国人や朝鮮人をネガティブに描写(差異化の一種ですね)した上でやるのがダメだと思うんです。嫌悪感→レイシズム→国粋、みたいな順序が個人的にはヤバイと思います。日本が好きなんじゃなくて、中韓朝が嫌いなだけだろ、みたいな。俺の方がはるかに日本好きだよ、みたいに思ったり。

私としては、立派な右翼や保守の方々に、↑の順序で人びとを動員するのでなく、もっともっと落ち着いて高尚な「日本論」を語ってほしいです。嫌悪や憎悪や怨念まみれじゃなく、日本人についても他者についても、もっと愛情に満ち溢れた言葉で語ってほしい。他所や他人を引き合いに出さずに、日本や日本人のすばらしさを語ってほしい。

「くだらね~ ああ くだらね~ ちょー くだらね~」のコメント欄



日本の心と知性を代表する保守論壇の方々には、他者への愛情や寛容の精神のあふれる言葉・文章で、靖国論・日本論を語ってほしいです。そういうのが、我々が誇る日本人の美徳でしょう。保守論壇こそがその心・美徳を継承し体現すべきでしょう。保守論壇が育てるべきなのは、憎しみにかられた日本人ではなく、他者への寛容と慈愛の心を持った日本人のはずでしょう。憎しみの心は日本人の文化でも伝統でも「誇り」でもない。寛容の精神こそが日本人の文化であり伝統であり「誇り」のはずでしょう。他者への憎悪を煽るのをやめ、日本への愛を語ってくれ。

靖国問題について


と書いたように、少々趣きが違うような気がする。「他人のちんぽ」に文句つけて喜んでる系。「他人のちんぽ」にケチつけるのはもういいから、むしろ「自分のちんぽ」の自慢でもしてくれよと。

姜と森巣の対談が行なわれたときとは、今の雰囲気は微妙に違う。当時は、おそらくよしりんだとか「つくる会」だとかが日本のナショナリズムの象徴みたいなかんじだったんだろうけど、今は、嫌韓嫌中あたりが象徴。もちろん、前者が後者を育てたとも言えるし、お互いにシンクロしたとも言える。
 
ついでに、「オレのちんぽこ論」に関連するエントリー。→「フランシス・フクヤマの『もし女性が世界政治を支配すれば・・・』論文についての論争」。フクヤマさんが、「一般に男性よりも平和を好み、軍事的介入に否定的な女性たちが政治を司れば、世界の紛争は少なくなり、より協調的な秩序が誕生するかもしれない」とか言って、しかられちゃってます。
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by mudaidesu | 2006-01-18 23:46 | ナショナリズム


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