<戦前>の思考  柄谷行人 1


帝国とネーション

明治維新はステートとしての統一は遂げたけれども、まだネーションネスを実現していなかった

明治政府は形の上で憲法を発布し、議会制度をはじめる。これは国家主義のイデオロギーであって、ネーションを形成するものではなかった。それは、むしろ敗北した自由民権派によって「想像的に」形成されたといったほうがいい

ネーションが本当に形成されるのは、それが人々にそのために死ぬことが永遠に生きることを意味するような気持ちにされるとき



乃木将軍・・・天皇を封建的な主君の代理に・・・彼が際立って見えたのは、近代のネーション=ステートを理解していなかったアナクロニズムのため

先に親族の強いところでは、それによってネーションの形成が妨げられているといいましたが、宗教も、イスラム圏のように強いところではネーション形成を妨げている。宗教が「生と死」を意味づけてしまうから

西欧において、このような「ネーション」が形成されるのは、18世紀以来啓蒙主義によって宗教が否定されてしまったあと。おれはロマン主義としてあらわれる。つまり、ネーションのために生き、そのために死ぬ、それによって永遠の同一性のなかにつながるという意識が、ロマン派とともにはじめて出現した。近代日本のネーションも、従来の諸概念の継承のなかに求めることはできない。むしろ、その否定のなかに見いだされる


ネーションを生み出したのは、「国家」に敵対するグループ、あらゆる伝統を一度切断するような人たち。広い意味で自由民権運動に属するような人たち。自由民権派のグループは、多くの新聞を発行し、「政治小説」と呼ばれる小説を書き、これが広範に読まれた。ナショナリズムが昂揚するのは、日清戦争においてだが、その場合、最も熱烈なナショナリストは、もと自由民権派だった人たちであり、彼らの多くはそれ以後国家主義者に転向していった。


フィヒテ・・・「諸国家間の最初の本源的で真に自然な国境は疑いもなくそれらの内的国境である。同一の国語を話すものは、あらゆる人間の技巧に先立ってただ一つの自然によって、目に見えない多数の絆でもって全体が結び付けられている。それは相互に理解しあい、また常にますます明瞭に理解する能力を持ち、同一の全体に帰属し、自然的に<一者>であり、分割しえない一つの全体をなす。こうした「民族」は自己の内に、異なる由来や国語を持つ他の民族を一つたりとも受け入れることはできないし、そのために少なくとも方向を見失い、自らの文化の進歩の連続性を著しく乱すことなしには、他の民族との温和を望むことはできない。人間の精神的本性=自然事態によって引かれるこの内的国境からまさに、それの結果にすぎない、人間の居住の外的国境の輪郭が生ずる。事物をその自然に即して眺めれば、人間は或る特定の山や川が描く線の内部に住むという理由から、同一の民族をなすのではまったくなく、それとは逆に、人間たちは無限に卓越した自然の法に従って既に同一の民族をなしていたからこそ、たまたまそうなった場合に、川や山に守られて共に住むのである。


フィヒテは、民族の同一性を、内的な言語に求め、他の要素、地縁や血縁に求めていない・・・ヘーゲルは、国家とは民族の政治的形態であるといったが、その場合「民族」は、まさにドイツ文学のこと・・・それは文学(言語)においてしか実在しなかったから

日本・・・この意味において、最も注目すべきものは、言文一致の運動。


宣長はどんなに日本語で書かれた古典を称揚しても、同時代のヴァナキュラーな言葉を言葉として認めず、また、それで書こうとしなかった。

本居宣長は、日本のナショナリズムの先行者として位置づけられるとしても、われわれが考えるナショナリズムの核心には触れていない


明治時代において、注目すべきなのは、こうしたナショナリズムとは逆の方向、つまり私のいう「想像のトランスナショナル共同体」への思考が同時にあったこと。・・・夏目漱石や岡倉天心といった人々に代表される。彼らは、漢学・漢文を価値とする世界に育った。漱石は、理論家として西洋文学の「普遍性」を疑った人ですが、その場合、彼はけっして日本文学を対置しなかった。彼はいつも、東洋文学、あるいは漢文学を対置した。

岡倉が英語で書き、漱石が38歳まで小説書かなかった・・・言文一致が完成しておらず、日本語が不安定な段階にあったからですが、ある意味で、彼らは言文一致に反対していた。言文一致の本質は、漢字の廃棄にあるから


日露戦争における日本の勝利は、岡倉にある余裕をもたらしている。その翌年に書かれた「茶の本」には、これまでの切迫感は消え、ユーモアにみちている。

「西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。ところが日本が満州の戦場に大虐殺を行いはじめてからは文明国と呼んでいる。最近武士道ーーー我が兵士に喜んで身を捨てさせる死の術ーーーについては盛んに論評されて来たが、茶道については、この道が我々の生の術を多く説いているにも拘わらず、殆ど関心が持たれていない。もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、我々はあくまで野蛮人に甘んじよう。我々は母国の芸術と理想に対して、当然の尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待つとしよう。・・・・・皆さん、信ずることができますかーーーー東洋はある点では西洋に優っているということを。


おそらく、日本の軍事的な勝利なくして、彼はこれほど余裕にみちて「東洋の優位」を語りえなかったし、語ったとしても無視されたでしょう。


「東洋の思想」が翻訳されたのは1939年で、日中戦争がはじまって二年後。そして彼の本が読まれたのは、日本の帝国主義を補完する汎アジア主義のバイブルとしてでしかなった。「アジアは一つ」という、彼の言葉は今も悪名高いものとして知られているだけ


漱石と岡倉の違い。漱石は西洋の普遍性を認めなかったが、東洋の普遍性も認めなかった。彼は、それらを超えた普遍性を求めようとした。彼は岡倉のように「詩的」ではなく、「科学的」だった。それは、何も積極的なものを提示していない。しかし、私は、いずれの極にも逃げることなく、いわば東洋と西洋の「間」において、その不安定な場所において思考しようとした漱石のほうに、敬意を払いたい。

それは今日の問題でもある。われわれは、「想像の共同体」としてのナショナリズムを否定すれば、他の選択肢として「想像のトランスナショナル共同体」に行き着くほかないのでしょうか。いわゆるインターナショナリズムが崩壊した現在、われわれは、あらためて、というより、はじめてインターナショナリズムの可能性を問う地点に立っているのではないでしょうか。



議会制の問題


ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、ものを考える上での基本的な姿勢。それはノーマルな状態を軽蔑することではない。ただ、日常的なノーマルなものが、どんなに複雑であるか、またそれが堅個に見えてどんなに脆弱であるか、そういったことを知るために不可欠。ニーチェはそれを「病者の光学」。

経済にかんして・・・例外的な事態、つまり恐慌から見る・・・マルクス。心理学・・・精神病から・・・フロイト。法や国家・・・戦争から・・・カール・シュミット(ナチの理論家)。

むしろノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解するため。ある種の人間、ロマン主義的人間にとって、例外状態のほうがなじみやすく、日常的な状態のほうが耐え難い。


民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということ。現実の政体とは関係なし。・・・デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないこと。

これはプラトン以来の難問。真理は、多数決で決定できるのかという問題。・・・プラトンは、・・議会制に反対して、哲学者=王こそ真理を代表すると

同じ問題は、ルソーが個々人の意志を超えた「一般意志」を規定したときにもあらわれる

マルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョア階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えた。それに対して、「プロレタリア独裁」・・・しかし、マルクスはその具体的内容については何も語らなかった。しかし、そこに、それならプロレタリア階級の「真の意志」は、どのように代表されるのかという問題が出てくる。その場合、晩年エンゲルスやカウツキーは、議会制を

レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考え・・・共産党はプラトンのいうような哲学者=王・・・ボルシェヴィズム

シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないと。もちろん、ヒットラーの独裁も民主主義的。(ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない)


こうして見ると、逆に、自由主義が何であるかが見えてきます。それは、「人民の意志」が公開討議による合意によって決定されるという考え方にもとづいています。・・・自由主義によれば、真理はとりあえず合意によって承認された暫定的なもの

それを批判したのはハイデッカー。真理は、討議や多数決によってあるのではない。また、それは表象(代表)によってつかまれるものでもない。真理は「存在の隠れ無さ」であり、それは少数の者(詩人)の言葉において開示される


フーコーの指摘は、自由主義と民主主義の問題に繋がっている。牧人型権力においては、すべての者が告白=表現せねばならず、そのことによって自由な主体となる。その意味で、基本的に、民主主義は、牧人型権力に由来する。しかるに、自由主義は、いわば、告白しない自由、救済を拒む自由にかかわっている


民主主義の本質は、人民の同質性であり、異質なものを排除することにある、とシュミット。(民主主義の政治的力は、国外的異質者と国内的異質者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離しようとする点に示される)。したがって、ユダヤ人、あるいは、外国人は排除される。しかし、これはナチスの人種主義(アーリア人種優越主義)とは別のもの。人種主義が一種のインターナショナルなのに対して、シュミットは「国家主義」。また、そのため、彼はナチの理論家として失脚した

彼の考察は、現在の「民主主義国家」についてもあてはまる。たとえば、社会民主主義あるいは福祉国家において、外国人は厄介なもの。彼らにも「国民」と同じ恩恵を与えなければならなのか。そうすれば、国家財政は破綻します。したがって、外国人は排除されるか無視される。しかし、それは必ずしも非民主主義的ではありません。事実、外国人を制限するkとおは、右翼国粋主義者だけでなく、共産党(フランスが典型的)によっても主張されています。もし「国民」の福祉が第一であるならば、その「国民」は外国人とは別のものとして考えられているのであり、そこに「同質性」が想定されている

一方、ハイエクのような自由主義者は社会福祉の拡大に反対。それは、国民と外国人の区別をすることになり、新たな移民を排除することになるから。


ハイエクも、シュミットとは逆の方向で極端。彼が民主主義と自由主義を対立させて批判するとき、それをシュミットから学んでいる。ニーチェは自分はあらゆるところにキリスト教の臭いをかぎ出す番犬であるといったが、ハイエクはあらゆるところに民主主義(国家主義)を見いだす番犬であり、シュミットはあらゆるところに自由主義を見いだす番犬。


ホッブスは必ずしも国家の絶対性を主張しているわけではない。彼は、特に宗教にかんして、内面的なものと外面的なものを区別しているから。つまり、個人は内面ではどんな信仰をしていてもかまわない。ただ外面的には国家に従わねばならないという考え方。シュミットはホッブスのこの点を批判。内面と外面の分離は誰も知らない「私」の部分を認めてしまうことであり、個人主義であり自由主義である、と。


ファシズムという概念は、いつも軍事独裁や圧政のようなものと混同されてしまう。これを代表=表象機能の失効から生じるボナパルティズムとして見たほうがいい。

ファシズムの本質は、「すべてを代表する」ことによって、議会制における諸党派の対立を「止揚」してしまうような形態にある。
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by mudaidesu | 2006-01-23 05:10 |


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