「論座」一月号 その他

その他




「なぜ社会は治安を欲望するのか by 芹沢一也」

現在かたちをなしつつある排除は、「秩序への意志」に貫かれたものである。しかも、特徴的なのは、そうした営みが恣意に流れないように、「マニュアル」が作成されようとしていることだ。



「宮台真司 佐藤俊樹 北田暁大 鈴木謙介 対談」

宮台・・・日本で同時多発的にルーマンが言及されるようになったのは、母国ドイツで同時多発的に言及が増えたからです。なぜか。ドイツ統一後、ハーバーマス的な憲法パトリオティズムに象徴されるリベラル左翼の図式が「死んだ」から。戦後ドイツは建前上、民族概念がタブー化した。で、民族パトリオティズムに抗うべく、憲法に合意した者が国を作るという憲法パトリオティズムが推奨された。でもそれだと東西ドイツ統合の正統性が語れない。なぜポーランドと一緒にならないか。そこでロマン主義的な諸概念(民族が典型)が見直されはじめ、そうした文脈でルーマンが注目された。



「中吊り倶楽部 宮崎哲哉vs川端幹人」

宮崎・・・天皇制・・一言でいえば「世界と人生の不条理」の象徴としてあった方がいい。天皇の正統性の根拠は合理的に説明できない。この説明できなさこそが、ウルトラ合理主義の歯止めになる。



「自民党の<変貌>と保守・右翼層の<分裂> by 桜田淳」


「保守」勢力には、概ね次に挙げる三つの層が混在していた。

第一は、「明治体制『正統』層」。明治以降、「富国強兵」の大儀の下での近代化、産業化を主導した層にとっては、「富国」を実現する経済活動の要請から、経済活動の自由や国際協調の確保は、当然の与件であった。この層は、宮中重臣層、外務・内務・大蔵各省を中心とした官僚層、財閥、政党政治家といった層を包摂し、近代日本の「正統」、あるいは「主流」としての位置を占めてきた

1930年代以降に経済停滞や社会不安が進む中で、この「正統・主流」層は、有効な手立てを講じられなかったことが災いした結果、度重なる右翼テロリストの襲撃を受け、2・26事件の折には「君側の妖」として決起将校らの攻撃の対象に。

「明治体制『正統』層」の性格を典型的に体現した吉田茂は、1930年代以降の日本の状況を「一時の変調」と認識した。「明治体制『正統』層」にあっては、後に触れる「『1940年体制』寄生層」や「『民族主義者』層」とは対照的に、戦前、戦中の歩みへの評価は誠に辛い。この層には、第二次世界大戦に「聖戦」や「アジア開放のための戦いといった正当化を与える感覚はない。石橋湛山や緒方竹虎のような戦前期の自由主義者の系譜が流れ込んでいるのも、この層。ジョン・ダワーによれば、吉田が布いた戦後の「経済発展優先」路線ですらも、経済を軸とした再生と考えられた

こうした路線にあっては、国富の増大は、政策の目標になり得るけれども、後に触れる社会的な「格差」の是正は、一義的な関心を呼ばなかった。


第二は、「『1940年体制』寄生層」。1930年代以降、経済停滞や社会不安に対処する意味合

いで、さらには戦争に伴う「国家総動員」の必要に応ずる形で、経済活動に対する国家統制や国民生活の平準化が進められた。・・・「1940年体制」は、実は戦後に至っても存続し、「世界で最も成功した社会主義国家」・・・を形作っていた。日本の国家予算一般歳出の中で最たる位置を占めてきたのが、社会保障関係費であり、それを所管していた厚生省という官庁それ自体が、1930年以降の戦時体制下の所産であったという事実は、戦後に存続した「1940年体制」の磐石さを象徴的に示している

田中角栄・・・「1940年体制」が構築した「大きな政府」の存在を前提


第三は、「『民族主義者』層」。この層とは、具体的な国民生活の「安定」や「福祉」といった要件よりは、国家や民族の「威信」や「自立」といった要件を重視する層。日本の戦後は、米国のジュニア・パートナー。戦前期に「親米英派」と呼ばれた人士の多い「明治体制『正統』層」にとっては、さほど違和感を覚えるものではなかったかもしれないが、「『民族主義者』層」には、内心、忸怩たる想い

自主憲法制定がこの層の悲願。・・三島の姿は、戦後における「『民族主義者』層」の疎外を暗示


この三つの層は、「55年体制」の下では誠に幸福な共存関係を成していた。共通の脅威として、ソビエト共産主義体制。

ソビエト共産主義体制の消滅以後には、三つの層の差異が白日の下に晒されることになった。小泉の執政下に顕わになった「保守」勢力の分裂は、この三つの層の分裂。

小泉・・自民党を「明治体制『正統』層」主体の政党に模様替えすること

小泉の師である福田も、戦前期に「1940年体制」を担った革新官僚の典型とも呼ぶべき岸信介から派閥を引き継いだにもかかわらず、その政策志向は、財政均衡を旨とした「明治体制『正統』層」のそれ


筆者は、政治という営みに直截にかかわりを持つ人々には、「政治家」と「政治活動家」の二つの種類があるのではないかと考えてきた。政治家の行動準則は、異なる理念や利害を持つ相手を前に、「利益の調整、微調整」を図るということである。そこでは、「妥協」は当然の技術である。方や、政治活動家の行動準則は、自らのイデオロギーや理念の上での「大儀」を実現することである。そこでは「妥協」は「大儀」の純粋性を汚すものとして嫌われるし、異なる理念や利害を持つ相手は、「静粛」や「総括」の対象でしかない。




「『中世とは何か』ジャック・ル=ゴフ 書評 by 井上章一」

ゴフは、「中世」はヨーロッパだけが体験した歴史であったという。「中世アラビア、中世インド、中世日本というような概念は必ずしも適切であるとは限らない。・・・そこには西洋的概念の度を越した拡張がある」

ゴフの中世像は、たいそうキリスト教的。ヨーロッパにだんだん、この宗教がひろがっていく。南方や東方のイスラム教とはちがう。キリスト教的ヨーロッパ世界という自意識が、ふくらむ。そんな過程のなかに、「中世」とよばれる歴史はあるという。

古典古代では、地中海世界が、ある一体感をもっていた。だが、その南側はやがてイスラム化され、別の世界になっていく。かわって、その北側にヨーロッパという世界が、形成された。それが「中世」だという。インドや日本の「中世」などは、ありえようはずがない。

日本の歴史学者が、日本「中世」史を想定しはじめたのは、20世紀のはじめごろ。古代の律令制が解体して、小領主の割拠する武士の時代になる。そして、彼らはヨーロッパの封建制とよく似た主従関係をむすびだす。そのことから、当時の歴史家たちは、日本にも「中世」があったと、考えた。

中国史に似たような現象は見られない。東アジアでは、日本に特徴的な展開だと、武士の登場はみなされた。そのため日本の歴史化たちは、武士の出現で、日本はヨーロッパ的になったのだと判断する。中国的な律令をすて、日本が自立した。そんな、脱亜論的な観点からも、「中世」は歓迎された。

自国の歴史を、ヨーロッパになぞらえる。西洋へあこがれる舶来崇拝の感情が、この時代区分をうけいれさせたのだと、言ってよい。そして、日本以外の国々でも、似たような事情で「中世」は、導入されたのだろう。西洋化をめざす諸国がありがたがった、世界標準として受容された観念ではなかったか。

だが、ゴフは「中世」に、そのような汎用性はないと言う。それは、特殊ヨーロッパ的な時代であったのだ、と。自らの歴史を世界の基準と考え、まったくあやしまなかったころの物言いではない。ヨーロッパを、地中海位北の地域的な特殊性で語る、今日的な歴史観だと言える。あるいは、EU時代ならではの歴史観だと言うべきか。
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by mudaidesu | 2006-01-24 23:17 |


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