西尾幹二とネタとかベタとかロマンとか


日本人の劣等感と優越感? & 欧米リベラル」のつづきというかなんというかそんなの。そっちに「嫌韓」やレイシズムについて、コメントたくさん書いたんで暇な人はどうぞ。途中から話が激変しちゃってるので最初の方だけでも。


で、そのエントリーで紹介したニューヨーク・タイムズ(または、IHT)の記事。↓

Japanese fad: Comics that degrade Chinese and Koreans (記事全文だよ)


この記事で紹介されている西尾幹二さんの言葉。↓


Currently we cannot ignore South Korea and China,

(現在、我々は韓国と中国を無視することはできない。) 

Economically it's difficult. But in our hearts, psychologically, we should remain composed and keep that attitude.

(経済的に無視は難しい。しかし、心の中では、心理的には、私たちは平静さを保ちそういう(脱亜入欧)の姿勢でいるべきだ。)


どこがあんたら「平静」なんだよ!というツッコミは置いておく。実際、西尾さんがどういう言葉をどういう意味で言ったのかわからないし。でも、この西尾さんの言葉を見て、「嫌韓」などの言説は「癒し」なんだなあ、とあらためて思った。







あまりに酷い描写なんで、小さい絵にした。
大きい絵は出版社のページで見れる。 ↓  http://www.shinyusha.co.jp/handbook/

民族憎悪を煽るための悪魔化。表紙でここまでやった。
本屋で普通に並んでた。ありえねぇ。



日本人(何人でもそうだけど)をこんな風に描写した絵を表紙にした本が、アメリカ(どこの社会でもそうだけど)の普通の本屋で並んでるのを想像すると・・・


ちなみに、韓国で「嫌日流」マンガが出るとかなんとか。内容は知らんけど、「嫌韓流」と同じように、<「まともな韓国人」が「愚かな日本人」を「論破」し「冷笑」する内容。結論は、「まともな韓国人」が「日本人ってアホだなあ。やれやれ」と。日本人を侮蔑・嘲笑することが目的の書>で<日本人憎悪を煽るために、日本人を悪魔化>していたら、僕の感想は当然同じ。

「進歩史観」の持ち主の「モダン」な人(欧米リベラルとか)なら、一部の中国人や韓国人のファナティックなナショナリズムはまだまだ大目に見てやれよ、ってことになるのかもしれない(関連:「ナチュラル・ボーン・キラーズ&ノーと言える中国」)。日本との歴史的経緯もあるし。連中は「遅れてる」んだからとか。でも、中国はともかく、韓国はもう「遅れて」ねーだろ。歴史の話ならともかく、現代の日本人に対するレイシズムは話にならねーぞ。アホッって言ってやる。


しかしほんと、靖国関連の話でも書いてきたけど、嫌韓反中勢力と中韓の反日勢力ってのは一蓮托生。お互いが一番の「味方」で「仲間」。勢力拡大には仲間の頑張りが不可欠。「ハマス大躍進」で一番大喜びしてるのは、元リクード右派(現リクード。3月の選挙で苦境に立たされるかもしれなかったのに。生き返りそう)。ってのと同じ構図。

(日本の右翼さんたちと韓国の反日愛国右翼さんたちは、実は繋がってんじゃねーの?とか変な想像しちゃうよ。元々は「反共」の同志だろうし。某キリスト教系の方々って韓国ではどういう政治活動してるんだろう?日本で嫌韓愛国煽りながら、韓国で反日愛国煽ってないよね?)




ところで、話戻るけど、東浩紀は嫌韓みたいな言説は「自己満足」だ言っていた。北田暁大の「嗤う日本のナショナリズム」に基本的には依拠してる。他者(韓国人やサヨ)の価値観を嗤って(冷笑して)、そういう作業を通じて自己=日本の優位性や、仲間との繋がりを確認しようとするロマン主義みたいのがあると。













その上で、東浩紀は「嫌韓にはリアリズムがない」とか嘆いてたけど、リアリズムがあったら「癒し」にも「自己満足」にも「ロマン」にもならんと思う。リアリズムじゃ楽しくない。ナイーブだからこそ、物語に酔える。カタルシスを味わえる。

ところで、東は「嫌韓」をアメリカで説明するのに苦労したらしい。
その話いついてはこちら→「95年以後の日本社会論を発信せよ by 東浩紀



ついでに、最近読んだ柄谷行人の本の中に、「近代の超克」についての論評があった。それをパクって、嫌韓について考えてみる。↑の西尾さんの言葉についてかも。

韓国はお隣さん。経済的にも政治的にも、日本には超大切な国。西尾さんはもちろんのこと、余程の天然さん以外、それは理解してる。中国はともかく、韓国ほどすべてにおいて日本に近い国はない。これが現実だってことはみんな理解してる。

でも嫌い。嫌いで嫌いでしょうがない。どうにもならない「矛盾」。アポリア。

その矛盾に現実的に対処しようとすることを拒絶する。「弁証法の否定」で矛盾を乗り越える。現実的な変革や進歩を唱えることを否定。現実を直視するようなリアリズムも利益の追求だから否定。それは不純である。美しくない。楽しくない。

この矛盾を乗り越えるための「美学」としてロマン主義。ロマンティシェ・イロニー。



話戻って、西尾さんには多少のリアリズムがあるから、↑のようなことをサラっと言えちゃうのかも。西尾さんの場合はあくまでネタであってベタではないのかも。「西尾さんのプチ懺悔!?」で「西尾さんは『ベタ』じゃなくて『あえて』の人なのかな」と書いたけど。その「あえて」がロマン主義的アイロニーなのかな。


というか、「<癒し>のナショナリズム」を書いた小熊英二がこんなこと言ってた。↓


あの本にも引用したように、「つくる会」の理事だった西部さんも、もう伝統というものは具体的に示すことはできない、だから「伝統を守れ」と「主義」として言っているのが自分の立場なのだ、と。保守主義というより、一種のニヒリズムですね。西尾さんだって、もとはニーチェ研究者です。「国民の歴史」も、かつて人間は神や仏といった自分以上の存在を信じることができたが、いまはそれを信じることができず、空虚さを抱えて生きざるを得ないという言葉で締めくくられている。

対話の回路 小熊英二対談集3 赤坂憲雄 上野千鶴子 姜尚中


これに通じるところがあるかもしれない。


「西尾さんプチ懺悔!?」の西尾さんや、「<至上の価値>と<愛国の源泉>」のコメント欄で紹介した西尾さんの天皇観なんか見ると、西尾さんも西尾さんなりに大変なんだなあ~と、愛情まで湧いてきたり。

「つくる会」名誉会長やめたようだけど、そのとき「若い人と言葉が通じなくなってきて、むなしい」って言葉を残してたけど、この「若い人」って僕らのことなのか?それとも、「八木さん」(現会長)のことなんだろうか。八木さんの「y染色体」がどうたらこうたらって話なんか、西尾さんの天皇観からすれば、全然ダメだろうし。(その後の西尾さん本人の話。)

とは言っても、西尾さんのあの天皇信仰告白も実は「あえて」のような気もする。天皇とは信仰だ!と言ってみたものの・・・西尾さん自身はその信仰を持ててないんじゃないかと。西尾さんには虚無を感じる。小熊の言うように、ニヒリズムを感じる。



こんなこと書いてた人もいた。↓


そして恐るべきことに相棒(?)にして「つくる会」会長のニーチェ研究者西尾幹二が「俺はこうやって論壇政治を最高に楽しむんだ」という確信犯であるのに対し、藤岡の「運動」への情熱はおそらくはどうしようもなく「本気」である。
 
おそらく「お前の息子を国のために捧げろ」と言われたとき、西尾幹二は「面倒臭いな」と思う反面、この国家が与えてくれた「悲劇」を十二分に利用して如何にドラマチックに生きるかを(まるで初期「朝ナマ」でそうだったように)周到に計算して振舞うだろうが、藤岡信勝は本気でバンザイ三唱して息子を送り出すだろう。そして「戦後」民主主義が上陸したとたん「私は被害者だ」と本気で思い込んで悲劇に浸るのではないだろうか。どう考えても、本当の意味でファナティックなのは藤岡の方である

惑星開発大辞典  ●藤岡信勝(ふじおか・のぶかつ)


↑の文章は藤岡信勝さんについての論評(なかなか興味深い)なんだけど、西尾さんについての記述もおもしろい。たしかにジェンフリ関連での西尾さんの発言なんかを見ると、どこまで本気(ベタ)なんだかさっぱりわからない(「東スポ伝説 & じぇんだぁふりぃ」)。 ひょっとしてネタじゃねーの?と思ったりもする。


でも、西尾さんの場合はネタだったとしても、ネタでロマンを楽しんでるとしても、巷の「嫌韓」の人たちの多くはだいぶベタになってきてるような。北田の分析は、ネタとベタの絡み合いってかんじだろうけど、だいぶベタが強くなってきたような気がする。ネタでやってるとムリに示そうとしてるようなところも見られる。これは、ベタだからこその照れ隠し、または自己正当化ではないだろうか。ネタだってと言いながら、それを強調するのはベタの証かも。そして、ベタ一本槍の人(天然さん)がだいぶ増えてきたと思う。

「冷笑」という段階を超えたような。シニシズムから(ヘド二ズムも経由して)ファナティシズムってかんじかな。まあ、いろんなものが混在してるんだろうけど。



初期の「嫌韓」は、あくまでネタだったと思う。普通に「おかしなアメリカ人」について笑い話してる程度だったのでは。僕もよく友人たちと「アメリカ人はおもしれーなあ」とか「スペイン人はうるせーなあ」とか「韓国人は熱いなあ」とか「黒人は声でかすぎだなあ」とか「インド人男性の甲高い声はおもしれーなあ」とか愚痴ったりネタで話したりしてた。

でも、当然、自分たちがやってる一般化の危険性は認識してたし、レイシズム的思考ではあっても、レイシズムやヘイトスピーチは絶対やっちゃイカンという自覚はあった。そういう前提を共有した上でのネタだった。もしかしたら、「嫌韓」もこういうレベルでスタートしたのではないだろうか。

「嫌韓流」みたいのがリアル(ネット外)でムーブメントになってしまったのは、「嫌韓」が完全にベタ化してることの表れではないかなと。レイシズム(ベタ・ガチ)の領域に完全に入った。初期の「嫌韓」の担い手で、「さすがにもう付き合ってらんねー。ついてけねー」と思ってる人たちもいるのではないだろうか。「リアルでレイシズムやる気なんてなかった。ヘイトスピーチなんてする気はなかった。レイシズムまで行ったらイカンとみんなわかってると信じてた。みんなネタだとわかってるはずだった」とか思ってる人もいるのではないだろうか。



ただ問題は、僕はなぜ「嫌韓」なのか?は理解できるし、自分にもそういう時期があったからこそ、「嫌韓」の人たちにシンパシーまで抱いてるのだが、さあどうするか、はまったくわからないこと。

優しく立派な韓国人は当然ながらいくらでもいるので、そういう人たちと触れ合ってみるのが一番なんだろうけど。頭を抱えるのは、そういうレイシズムを政治や商売に利用しようとする人たちがゴロゴロいること。

これからが日本社会の正念場だと思う。アメリカやヨーロッパはずっとこういう問題と格闘してきた。先人たちの経験の蓄積はある。幸運なのは、僕らは先人たちを参照できること。不安なのは、アメリカもヨーロッパも今だに格闘しつづけていて、見通しは決して明るくないこと。
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by mudaidesu | 2006-01-27 22:23 | ナショナリズム


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