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白バラの祈り




反ナチ活動グループ“白バラ”のメンバー、ゾフィーと兄ハンスが反戦ビラを配ったために逮捕された。ゲシュタポから決定的な証拠を突き付けられたゾフィーは、ある悲痛な決意を固めていく。

公式サイト



フェルメールを意識してるのかなってな絵が多かったような。


やっぱ、危険をわかっててやったんだから「自己責任で自業自得」。なのかな。反国家的行為らしいし。国家に金までもらってるのに、政府の言うこと聞かないで、あげくに余計なことして国家に迷惑かけたし。あの「3匹」は「三馬鹿」or「3バカ」かな。


しかしながら、僕らの周りでも、映画の中で出てきたような言葉が、似たような文脈で使われてるなあと思った。まあ、昔から、いつでもどこでも、似たような文脈の中で、似たような言葉を使って、人々はやり取りしてきたんだろうなあ。



つーか、僕には無理。ゾフィーにはなれない。

「大儀のために美しく死ぬ」ってなヒロイズムは、逆方向への回路に回収されちゃうこともあるし。
(<至上の価値>と<愛国の源泉>ねじ曲げられた桜


僕だったら、最後の「規則違反だけど」と言いながらタバコをあげる刑務官くらいがいいとこかなあ。どうだろう。せめてそのくらいではありたい。というか、今を生きる現在の僕がそのまま当時にいたら、あのくらいだろう。僕というポテンシャルの人間が当時のドイツで生まれ育ってたら、たぶんお話にならない。想像するだけでコワイ。けど、「いざ」ってときには、ひょっとして腹が据わったりして。ま、そういう状況にならないとわからないっすね。


あの最後のシーンでの3人はかっこよかった。神々しかった。

それは僕が「時代を超えて変わらない大切なもの」をゾフィーたちに見るから。普遍的な価値を。

でも、自爆テロに賛同する人たちからすれば、自爆テロに向かう人たちの姿はまさにあんなかんじに見えるのだろう。そして、彼らにとってもそれは普遍的なものなんだろう。イスラムだとしたら、やっぱりイスラムも普遍性を謳う宗教だし。










ところで、やっぱ、

戦後すぐの共産党は光り輝いて見えたんだろうなあ。




つーか、殺された女性(である必要はないけど)共産党員あたりを主人公にして、日本でもこういうのつくれたでしょ。拷問かなんかのシーンで、宇多田ヒカル の「be my last」あたりをガンガンに流してドラマチックに描いて(しつこいけど)。いや、この曲を最初に耳にしたとき、僕の頭の中で浮かんだ絵がそれなんよ。なんでだか知らないけど。

んで、「震えがとまりませんでした!」とか「良心の大切さと信念を貫くことの大変さについて考えさせられました!」とか「私と同い年の子なのに・・(涙)」みたいなアレ系のCMをバンバンやって。ヒットすると思う。って日本じゃ無理か。情けねぇ。

大島渚も「御法度」なんてスットボケタ作品撮ってないで(嫌いじゃないけど)、こういうのをやってくれよと。僕らの世代の度肝を抜いてくれよと。てか、若い映画人やってくれよ。


ただ、やっぱ共産党員が主人公だとまたちょっと違うのかなあ。ゾフィーは党派性が薄いし(そう見える)、「筋金入りの活動家」ってより、「普通の女性」ってかんじなところがまたウケたんだろうか。「普通のドイツ人」が感情移入しやすいんだろう。あんな状況であんなことやれちゃう人が「普通」なわけないんだけど(もちろん良い意味で。尊敬・畏敬の念を込めて)。

ローザ・ルクセンブルグの場合は、もう歴史上の偉人・英雄ってかんじだから、党派性は気にならないのかなあ。映画「ローザ・ルクセンブルク」もすばらしい(この監督(女性)の他の作品もすごい)。


追記:「三四郎日記」さんがこんなこと書いてた。↓


日本共産党員や共産党の支持者っていうのは、少なくとも心情的には、ゾフィーの側にたっている。これは、単にイデオロギーとかの問題じゃなくて、日本共産党が背負っている歴史によるものだ。

そう、日本にもゾフィーはいたのだ。飯島喜美とか伊藤千代子高島満兎田中サガヨたちだ。彼女たちは特高警察の拷問などによって殺害された。みんな24歳だった。だけど、彼女たちの死は多くの日本国民には知られていない。僅かに数十万人の共産党員や共産党支持者が彼女たちの死を記憶にとどめているに過ぎない。

この辺りが、スパルクス団(ドイツ共産党)のローザ・ルクセンブルクなんかを「通り」(Stra遵me)の名前にするようなドイツとは違っている。

白バラの祈り-感想その2




この映画の監督によると、ドイツでは190の学校がゾフィーの名前をつけてるらしい(公式サイト)。共産党員でも共産党支持者でもない僕も、彼女たち(彼らも)の死をちゃんと記憶にとどめる。













それにしても、直球勝負だった。安易すぎってかんじもしないでもないけど、しつこくドラマチックにしようとしてなかったのがよかった。いや、実は台詞が安易すぎて(リアルなんだろうけど)、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、退屈してしまった僕です。すんません。

でも、昔の人もあんな直球勝負の言葉でやりあってたんだなあ、と感慨深かった。
 
ほんと淡々と話が進んでいった。余計なエピソードとかがないのがいい。判決から処刑までもサクサクと。そこがスゴイ。実際、時間は待ってくれない。時はサクサクと進んでく。もうちょっともうちょっとってのがない。もうちょい待ってくれよーってのがない。そこがツライ。

直球勝負でも、ナチス側の人たちの微妙な葛藤がうまいぐあいに描かれてた。ナチの描き方はステレオ・ティピカルではあるんだけど、その中で微妙な心情をもチョロチョロと散りばめてる。

絵はいいけど、音楽はパッとしなかったけど。


この映画について、ドイツの「保守論壇」はどんなこと言ってんだろ。この映画は、ドイツだけじゃなく、世界中で賞をとりまくってるけど。ネオナチさん以外で、「主流の保守派」にも「反独」とか「売国」とか「自虐」とか言ってる人なんているのかな。日本と違って、体制が戦前戦後で完全に断絶してるドイツじゃさすがにいないのかな。



でも、直球勝負ってのは時代を反映してんのかなあ。ドイツにも「ホロコースト」すら知らないって世代がガンガン出てきてるようだし。ドイツでも、前の世代が共有してたような「前提」がもう存在しないのかもしれない。あそこまで、直球で露骨に言葉で表現しないとわからないのかもしれない。

50年代から70年代くらいまでのドイツ映画は違ってた。過去を引きずってるような作品が多いんだけど、直球勝負ではなかった。メタファーばっかり。それもそれでしつこいんだけど。それで、やたらと重い。というか、キツイ。疲れる。とにかく、ゴダールだのトリュフォーだの同時期のフランス映画とは全然違う。

ただ、そういうドイツ映画だから、ドイツ国内ではあまり人気がなかったらしい。やっぱ、もういいよ、ってかんじなんだろう。数十年後に観てるこっちだって気が滅入るんだし。別に、反省してます!みたいな作品では全然ないんだけど。ただ、過去を引きずってる、過去が陰を落としてる、ってのがチラチラしてるだけなんだけど。


でも、そういう作品を、うんうん、とか思いながら(連合国の)外国人が観てる光景ってのも、うーん、だけど。この作品もそう。よしよし、ドイツ人はちゃんと反省してるな、みたいな。

ドイツ人の反省もいいけど、みんな、自分たちも省みようよと。程度の差はあるけど、↑で書いたように、似たようなネタはどこにでもあるだろうし。


ま、とにかく、はやめに声をあげろ、ってことかな。渡辺清も「なんで言ってくんなかったんだよ!おせーよ!」みたいなこと書いてたし。(砕かれた神  ある復員兵の手記)


てか、ビラは便所とか目立たないとこに撒けばいいのに、って思うのはやっぱ小心者かな。それじゃ、劇的な効果がないね。どーだコラ!ってとこに撒かれてるからこそ、読む人にも勇気を与える。

世界中で、こういう人(良心の囚人)がまだたくさんいるんだよねえ。

アムネスティ・インターナショナル・ジャパンでもリンクしとく。

学校の先生でアムネスティの人がいて、この人はチリ人なんだけど、夫がピノチェト政権下で拷問受けて殺されたそう。ピノチェトを支えてたアメリカに移住するってのがすごい。おまけに、同僚に、悪名高い「School of the Americas」(中南米の軍人たちを教育するアメリカの学校で、ここで教育を受けた人たちが、拷問とか弾圧に関わりまくり)の理事だった人がいた。

この前、チリ初の女性大統領になったミシェル・バチェレも拷問経験あるみたいね。

ま、気が向いたら手紙作戦でもやってみて。


しかしながら、この映画についての僕の感想は政治性剥き出しでキモイくらい。でも、この映画を観て、頭をよぎったのはこんなんばっか。一応、ナショナリズム問題あの問題がここんとこ気になってるし。なんでもかんでもこういうネタに回収してしまう。なんか、なんでもかんでも教育基本法と憲法のせいにしちゃう保守オジサンたちの節操ない思考に微妙に似てきちゃったかな。ちょっと前までは「ノンポリ」(この映画でも出てきた表現だけど)だったんだけど。


ああ、せつねぇ。

たいしてすごい映画だとは全然思わなかったけど、映画観て「せつねぇ」と思ったのは「リリイ・シュシュのすべて」以来のような気がする。




















by mudaidesu | 2006-03-05 06:26 | 映画


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