愛国心vs祖国愛 1  by 藤原正彦 


藤原さんの「国家の品格」がやたらと売れてる(百数十万部?)ようだけど、僕は読んでない。忘れたころにでも読もうかと思ってるけど。ナショナリズム・フェチ野郎としてはチェックしとくべきなんだろうけど、あんまりそそられないし別にいいや、って気分でやる気なしの僕。

んで、藤原さんへのインタビュー記事があった。本を読んでないのに、この記事だけに喰いつくってのもなんだかなーだけど、気にしない気にしない。ちょっと引用↓。




「私は本で『祖国愛』を自国の文化、伝統、情緒、自然を愛することだと定義したんです。だから、この文でいうと『伝統と文化を尊重』することがまさに『国を愛する』ことなんですよ。内容が重複してしまっている」・・・

「愛国心なんて今すぐ廃語にすべき言葉です。この言葉は明治以来の失敗の最大の原因でしょ。愛国心という言葉には、二つの相反する異質なものが混じっている。一つはナショナリズム。これは国益主義で、他国はどうでもいいという考え方。二つ目はパトリオティズム。つまり祖国愛。これはすべての人間が当たり前に持っていないといけない。でも、戦後の日本は両方を捨てた。それで、今ごろになって、汚い手あかの付いた愛国心という言葉を使おうとしている」・・・

――どういう表現がいいのでしょうか。

「『自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛する』。これでいいんです。趣味の問題ですけど。でも、私が首相じゃないから、『書き直せ』というわけにもいきませんしね」


藤原教授は著書で「愛国心」という言葉には自国の伝統や情緒を愛する「祖国愛」と、自国の国益だけを考える「ナショナリズム」の二つの意味が含まれると指摘。ナショナリズムは、戦争につながりやすい不潔な考え方だと批判している。

教育基本法改正案 藤原正彦氏に聞く【「愛国心」今すぐ廃語に】―「東京新聞」



「戦後の日本は両方を捨てた」


だけど、それは、公的な空間ではそうかもしれないけど、人々のまさに「心の中」ではそんなことはない。まったく気のせいだと思う。


つーかさー、何十もの国の人を見てきたけど、日本人ってのはめちゃくちゃナショナリスティックだっつーの。僕も含めて。もっとナショナリスティックであることを求めるって貧欲すぎ。飢えすぎ。

これ以上、日本人がナショナリスティックになったらキモイだけだって。マジで。僕も自分のことナショナリスティックすぎてキモイとときたま思うし。

しつこく愛国ネタ。僕のフェティシズム。


と書いたけど、僕が思うに、藤原さんの言う「ポジティブなパトリオティズム」も「ネガティブなナショナリズム」もガンガン日本に存在したし、するから。戦後ずっと。力道山、安保闘争、東京オリンピック、経済成長、反中嫌韓、W杯、WBC・・・・いくらでも、無数に例がある。

つか、普通に、多くの日本人が日本が好きでしょ。日本のいろんなもんに愛着あるでしょ。


愛国フェチな方々が、「国を愛するのは当たり前。普通」とか言ってるように、普通に。唾飛ばして叫ばないだけで。他者にそういうの強要しないだけで。なのに、「日本人はそういうのを捨てた」とか「日本人は愛国心がない」だの、そういう言説は嘘。はっきり言って、嘘。

嘘じゃないなら、「結局、愛国心フェチの先生方が、今の日本人を気にいらねーってだけか。自虐的だねえ。」ってこと。

んで、「公的な空間」でベタにやるのは、おいおいマジかよ、ってな話になってんじゃないかと。

それに、日本や日本社会が嫌いな人はそれなりの理由があんだから、それはそれで勝手でしょ。




「私は本で『祖国愛』を自国の文化、伝統、情緒、自然を愛することだと定義した」
「『自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛する』。これでいいんです。」


あたりは、別にいいんだけど、どうもやっぱ、文化伝統ってのもそこそこ定義しないと苦しいなと。アンチ・ジェンフリみたいのも「日本の文化伝統」とか自称してるし。自分好みの思想慣習その他を「日本の文化伝統」とか言って、同胞を抑圧するのに利用されたりしちゃうから。純血教育とか。しつこいけど。(日本の古き良き伝統を守ろう(笑)


藤原さんは「保守」だからこう言うのは当然だし、こっちとしても、そこまで目くじら立てる気もないんだけど、やっぱ、ナイーブになりすぎるのもどうかと。やっぱ、「文化や伝統」みたいな表現が「政治的」に使用される際は(○○は日本の文化伝統を破壊しようと企ててる!とか)、めちゃくちゃイデオロギッシュな意味合いを含んでくるから(アンチ・ジェンフリとか)。

というか、「文化伝統」ってのは、まさに、イデオロギー闘争の主戦場だし。




「趣味の問題ですけど」


と藤原さんは言ってるけど、いまいち文脈がわからない。「どういう表現がいいのか」という質問に対して、「どういう表現にするか」は「趣味の問題」と言っているのか。それとも、「自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛する」ってこと自体が、どんな文化や伝統などを愛するかは、「趣味の問題」と言っているのか。どっちだかわからない。

前者なら微妙だけど(悪いとは言わないけど)、もし後者なら、藤原さんにはそこそこ好感持てる。それこそ「保守のバランス感覚」だし、日本の戦後保守派の主流が持ってた寛容さやユルサを体現してると思う。たぶん前者だろうけど。





でも、この藤原さんの「愛国心」とか「祖国愛」とか「ナショナリズム」とか「パトリオティズム」みたいな表現の定義、というか使い方には、僕としては、びみょー、ってところがある。




         パトリオティズム = 健全 = 善
      /
愛国心 
       \
         ナショナリズム = 偏狭 = 悪


パトリオティズム = 祖国愛 = 自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛する




藤原さんはこんな↑かんじのイメージを抱いてる。

まあ、ある意味わかりやすく、多くの人にとって合意可能なものではあるかも、とも思う。というか、ややこしい話にするよりは、これですっきりさせちゃうのもアリかなと思ったりもしないでもない。

というか、菅直人なんかも、最近、この本の話をよくしてて、「祖国愛」ってのがいいんじゃないかみたいなことを言ってる。

藤原さん自身は↑のインタビューで表現は「自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛する」で十分と言ってるけど、「この表現=祖国愛=パトリオティズム」と言ってるわけだから、結局、便宜上「祖国愛」を使おうってことになるのかな。

この定義でみんなが合意して、これで行くってことになるなら別にいいのかもしれないけど、実際問題、そう簡単には行かない。



というか、そもそも、日本でも昔から「ナショナリズム」と「パトリオティズム」を区別する議論はあった。この場合、良い意味として「パトリオティズム=愛国心=郷土愛=健全=善」で、悪い意味として「ナショナリズム=民族主義=国粋主義=偏狭=悪」みたいなかんじじゃなかったっけ?

「パトリオティズム」ってのが日本語で「愛国心」ってのが普通だった。ような気がするけど。というか、パトリオティズムを訳するときは、普通は「愛国心」だよね。

んで、まあ、藤原さん以前にも、「真の愛国心」は「パトリオティズム」で「郷土愛」だ、みたいな話はあったけど。で、藤原さんは、「郷土愛」じゃ「(自)国」って表現が入ってないから入れて、「祖国愛」にしちまえ、って話かな。



まあ、それはおいておいて、

他者からは、僕のような「反日サヨ」や藤原さんのような「保守」からは、どう見ても、排外的で、狂信的で、「偏狭な愛国心・ナショナリズム」の典型みたいな言説をする人だって、「健全なパトリオティズムを持ったパトリオット」って自称するのが世の常。

たとえ、その「自称パトリオット」が「ナショナリズム=悪。パトリオティズム=善」ってな発想に合意したとしても、「自称パトリオット」の自己認識では、「自分のはパトリオティズム(善)で、健全な祖国愛(善)」ってかんじ。当たり前だけど。


おまけに、その排外的で狂信的で「偏狭なナショナリズム」の典型のような「自称パトリオット」にとっては、自分のは「健全なパトリオティズム(善)」としながらも、同じようなロジックを使う他国(中韓とか)の「自称パトリオット」の言説は「偏狭なナショナリズム(悪)」とか「行き過ぎたナショナリズム(悪)」と認識する。

これは何度も書いてきたけど、傍からは、おたくらみんな同類だよ、って話なんだけど、当事者の「自称パトリオット」たちにとってはそうじゃない。世界中、歴史上、常に、こういう「自称パトリオット」がいたし、いる。で、お互い喧嘩しまくり。




で、そういう「自称パトリオット」に対して、「それは『祖国愛』じゃない。『パトリオティズム』じゃない。おまえの愛は善じゃなくて悪だ」なんていちいち指摘するのか?って話。でも、これって、結局、これ↓と同じことじゃないのかなと。


つーかさー、愛国心フェチの人たちにとっての「愛国心がある・ない」って、ようするに「オレの主観で、コイツの存在・思想は国のため(利益)になる・ならない」程度のことでしょ。ならそう言えばいいのに。って言っちゃったら、思想信条の違いを認めない、みたいな話になっちゃうからヤバイと自覚してるのかな。

「オレの主観で、コイツの存在・思想は国のため(利益)にならない」って話なら、僕の主観で、愛国心フェチの人たちの存在・思想は日本のため(利益)にならないから、この人たちには「愛国心がない」って言っちゃうよ。

でも、言わない。

僕の主観では、愛国心フェチの人たちは、日本のためにまったくならないし役に立たないけど、彼らは彼らなりに日本を良くしたい、日本人を幸せにしたいと頑張ってるんだろうなあ、と思うから。

(ストーカーがストーキングする相手を、ストーカーなりに愛しているのと同じように。相手のためにはならないけど。いや、それを「愛」と呼んでいいのか微妙だけど、僕としては、ストーカー本人が「愛」だと思ってるなら「愛」でいいと思う。けど、当然、「愛」だから善ってわけじゃない。)

まさに、愛国心フェチの人たちが、「反日」と呼ぶ人たちと同じように。「反日」呼ばわりされる人たちだって、彼らなりに日本を良くしたい、日本人を幸せにしたいと頑張ってるわけでしょ。


「愛国心フェチの存在は、日本のためならない」とは僕は言うけど、「愛国心フェチは、愛国心がない」とは(ベタには)言わない。「愛国心フェチは反日」とか(ベタには)言わない。

しつこく愛国ネタ。僕のフェティシズム。



ようするに、どういう思想信条表現感情態度・・・が「祖国愛」「パトリオティズム」「健全な愛国心」「愛国心」「ナショナリズム」「偏狭な愛国心」かどうかなんて、絶対合意不可能。

というか、定義そのものは合意できても、いざ、個人に当てはめて善悪などの価値判断をはじめたら、堂々巡り。まさにくだらなくわけわからん「愛国者競争」(↑のコメント欄)になる。というか、「愛国者競争」が「祖国愛競争」「パトリオット競争」になるだけかと。

結局、延々と「オレのは真で善。オマエのは偽で悪」とやり合うだけではないのかと。





そもそも、英語での「パトリオティズム」と「ナショナリズム」って表現の違いは、「善-悪」とか「健全-偏狭」みたいな話じゃないと思うんだよね。意味も使用法も微妙に違うんだけど、大きな違いがあるわけではないと思う。

いや、別に、「祖国愛」って表現だけでやってくならまだいいんだけど、「ナショナリズム」と区別して、「パトリオティズム」の訳語として、って話みたいなんで。


で、意味や使用法が微妙に違うってのは、簡単に言っちゃえば、「ナショナリズム」は社会的な現象や社会の雰囲気みたいのを表現するときに使用されることが多いと思う。一方、「パトリオティズム」は個人の心情や態度を表現するときに使用されることが多い。


たしかに「パトリオティズム」は肯定的な意味合いで使用されることも多い。他者が「あの人はパトリオティックで立派だね」みたいに言ったり、「自称パトリオット」が自分の心情や信条を誇ったり。

でも、「オレはパトリオットだ!みんなパトリオットになれ!」みたいなことを叫ぶ人が急増しているような社会の風潮を「ナショナリズム」と表現したり。「ナショナリズムが社会に蔓延してる」とか。

ウケすぎ。愛国ネタ。」で出てきたレイシスト・ムーブメントも、本人たちからしたら「パトリオット・ムーブメント」だろうけど、ニュースでは「レイシャル・ナショナリスト・ムーブメント」と言われてた。



んで、


Patriotism is the virtue of the vicious.
(パトリオティズムとは悪人の美徳である。オスカー・ワイルド(1854–1900)。)

Patriotism is the last refuge of a scoundrel.
(パトリオティズムはならず者の最後の逃げ場所である。サミュエル・ジョンソン(1709-1784)。)


↑の二つの表現でもわかるように、「パトリオティズム」も決して「善」ってイメージで完全に受け入れられているわけではない。「パトリオット=他者や同胞に自分の思想や美徳を押し付ける独善的で迷惑な人」って意味も普通にある。


「自称パトリオット=ウザイ」みたいな。「愛国フェチ=ウザイ」みたいなもん。「自称パトリオット=愛国フェチ」は、同胞を反日だの売国だの言う傾向がある、みたいな。同胞を抑圧排除して快感を覚える、みたいな。「自称パトリオット=愛国フェチ」は、同胞だけじゃなく、他国や他民族を罵倒嘲笑する傾向がある、みたいな。

↑の二つの表現の「patriotism」はこういう意味。ようするに、藤原さんの言う「ナショナリズム=戦争につながりやすい不潔な考え方」みたいな意味。結局、「パトリオティズム=ナショナリズム」になっちゃう。


別に↑のような「パトリオティズム」の使用法がスーパー・マイノリティで、ほとんどの人が納得しないってなら別にいいんだけど、そういうわけでもない。「パトリオティズム」という言葉をナイーブに全肯定しまくるのはヤバイってのは、当たり前に共有されてると思う。

んで、結局、英語の「パトリオティズム」は日本語では「愛国心」なわけよ。両方、手垢がついてる。藤原さんは、手垢がついてるのは「愛国心」だけみたいな話してるけど、違う。「パトリオティズム」も手垢がつきまくり。(パート3でもう少し例を紹介。)


↑の「Patriotism is the virtue of the vicious.」てな表現なんて、スーパーヒットしたハリウッド超大作の「ザ・ロック」で、ヒーロー(ショーン・コネリー)が言うんだから。

おまけに、この監督は「パール・ハーバー」なんてウンコなパトリオット映画を撮った人だし。ついでに、この「ザ・ロック」だって、右翼的な映画とも言える(超好きだけど)。ようするに、右翼が「パトリオティズム」って概念のアヤシサをしっかり批判してるとも言える。しかも、リベラル的な批判。と言っても、批判される方も最後はヒーローっぽくなって「真のパトリオット」ぶりを発揮しちゃうから、そこが右翼的かなと。


 

それに、「祖国愛=郷土愛=パトリオティズム」ってのは、公権力や統治機構からフリーでイノセントな愛、みたいなイメージがあるけど、そんなことはない。

兵士なんかは「パトリオット」と呼ばれるだろうけど、郷土だけじゃなくて公権力(政府や軍)に忠誠を誓い服従する。

となると、「祖国愛=郷土愛=パトリオティズム」を徹底させるってことは、「パトリオット」を育てるってことは、公権力に忠誠を誓い服従するって意味も侵食してきてしまうのは避けられない。


というか、↑で書いたように、結局、定義を考えるのはいいことだけど、すっきり線引きはできないし、善悪の話にしたら、わけわからなくなる。





それに、「ナショナリズム」も肯定的に使われることも普通にある。

僕自身も、ときたま肯定的な意味合いでナショナリストを自称してるし(ネタだったり嫌味のときもあるけど)、ナショナリズム自体は否定していない。(チンポや姜尚中やナショナリズムや近代とか

むしろ、自国の政治や社会に関心を持ち、発言したり行動したりってのはナショナリズムで、上野千鶴子でさえもナショナリストでしょ、みたいな小熊英二の定義が一番しっくりくる。

小熊の言うように、「我々はナショナリストたらざるをえない制約を抱えている」ってかんじがする。「逆にいうと私は、ある種のナショナリズム批判の方法は、ナショナリストを他者化しすぎる危険性がある。いわば『彼ら』を立ち上げてしまう」って気持ちもわかる。(対話の回路 小熊英二対談集3 赤坂憲雄 上野千鶴子 姜尚中

ついでに、「護憲ナショナリズム」みたいのも一応肯定してる。




僕の肯定的使用法は別にしても、植民地支配に抵抗した人たちなんかは、普通に「ナショナリスト」と描写される。そういう抵抗運動を支える社会の風潮なんかは「ナショナリズム」と表現される。

ガンジーなんかも「ナショナリスト」。アフリカ各国の建国の父たちもそう。明治維新なんかも「ナショナリズム」で、活躍した人たちは「ナショナリスト」。


こういう運動や風潮や人を肯定するにしても否定するにしても、普通に「ナショナリズム」「ナショナリスト」という表現が使われる。「パトリオティズム」とか「パトリオット」みたいな表現はあまり使われない(ような気がする)。

ホー・チ・ミンなんかも、コミュニストというより「ナショナリスト」と肯定的にも否定的にも言われたり。イランのMossadegh(日本語の発音知らん。検索すると人によってテキトーだね)なんかもそう。



てか、抑圧されてる弱者やマイノリティの抵抗運動や民族意識みたいなもんは、「ナショナリズム」と表現されるけど、肯定的な意味合いが強い。反対に、抑圧する側やマジョリティや強者の熱狂みたいなもんは、同じように「ナショナリズム」と表現されても、否定的な意味合いが強い。


中国人や韓国人の反日感情は「ナショナリズム」だけど、微妙に同情的に見られたりもする。日本人の反中嫌韓も「ナショナリズム」だけど、否定的に見られたり。前者は元被害者だし弱者だと。

これは黒人(弱者・マイノリティ・元被害者)の反白人感情と、白人(強者・マジョリティ・元加害者)の反黒人感情の受け取られ方の違いと同じ。


パレスチナ人とイスラエル人みたいな圧倒的に非対称的な関係ならまだしも、日中韓や黒人白人みたいな関係なら、こういうのはたしかに不公平だとは思う。僕からすりゃ、どっちもどっち。


「進歩史観」の持ち主の「モダン」な人(欧米リベラルとか)なら、一部の中国人や韓国人のファナティックなナショナリズムはまだまだ大目に見てやれよ、ってことになるのかもしれない(関連:「ナチュラル・ボーン・キラーズ&ノーと言える中国」)。日本との歴史的経緯もあるし。連中は「遅れてる」んだからとか。でも、中国はともかく、韓国はもう「遅れて」ねーだろ。歴史の話ならともかく、現代の日本人に対するレイシズムは話にならねーぞ。アホッって言ってやる。

西尾幹二とネタとかベタとかロマンとか



みたいなこと書いたけど。まあ、でも、残念ながら、傍からみたらそういうもん。世の中、そんなもん。

日本人や白人のナショナリズムは同情されない。強者だと思われてるから。

海外での靖国問題についての受け止め方にもそんなところがあるかも。



ついでに、石原慎太郎さんなんかも「ナショナリスト」と記述される。この場合は否定的な意味合いが強い。否定的な場合は「ナショナリスト=右翼(right-wing)」ってかんじ。両方、イメージは悪い。


というか、社会科学の文献やニュース記事では、「彼はパトリオットである」なんて表現はほとんど見ないような気がする。肯定否定関係なく、「彼女はナショナリストである」ってのが一般的かなあと。




なんだか、やたらとごちゃごちゃした話になっちゃってわけわからないけど、まあ、「祖国愛」だろうと「郷土愛」だろうと「愛国心」であろうと、「愛」とか「心」みたいな表現を「政治的」に使ったら、あぶないしあやしいし、わけわからなくなるのは同じ、って話。

別に使うなって話じゃない。使うなら、あさしさやあぶなさを認識しましょうって話。



とにかく、「パトリオティズム=祖国愛」もいままでの「愛国心」と同じものになってしまうのは確実。

逆に、もし「祖国愛」には悪いイメージがないとすれば、それこそ危険。マネーロンダリングみたいなもん。すっきり綺麗なイメージだけになっちゃったら、警戒心も薄れちゃう。


まあ、結局、たとえ藤原さんの「祖国愛」って表現が普及しても、「反日サヨ」な僕とかが、「おまえには『祖国愛』がない!反日だ!売国奴だ!非国民だ!」とつるし上げられて、そのうち、みんなが「祖国愛」って表現にも胡散臭さを感じるようになるんだろうけど。

それにはいったいどのくらいの年月が必要なんだろう。

で、藤原さんみたいな人がまた出てきて、「祖国愛」って表現は手垢がついててダメだ。○○○にしよう。とか言って、賛同されたり。で、○○○もダメで、次は・・・・エンドレス・ループ。


↑の二つの表現が示すように、「愛国心うさんくせ」「パトリオティズムふざけんな」みたいなことを思ってた人は、数百年前からいたけど、人類の共通前提になった(ってのは言い過ぎだけど)のは、ほんのここ数十年。おまけに、鬼のような被害と犠牲と悲劇を経験した後。



ついでに、「超政治的」な話なのに、「国を愛することのどこがいけないの?」みたいな素朴でナイーブな論法で押し切ろうとするのはズルイし、一般国民ピーポーが無邪気にそれに乗っちゃ絶対ダメ。



最近、やたらと長いけど、ごめんなさい。思ったことを書いて並べておくことが主目的なんで、基本的に、読んでくれる人のことは無視してます。ごめんなさいごめんなさい。すんませんすんません。


で、この藤原さん祖国愛パトリオティズムネタは、パート2&パート3につづく。



愛国心vs祖国愛 2  国益主義
愛国心vs祖国愛 3  パトリオティズム
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by mudaidesu | 2006-04-18 22:48 | ナショナリズム


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