屍鬼とホラーハウス


ある保護者の方が集まるブログとサイトにこんなことが書いてありました。

「地域の不審な人に立ち向かい、不審な出来事を問題にしてください。」

PTAの通信欄に書いてあった言葉だそうです。困惑されてる様子でした。ものすごい日本語です。いやそのどうやって?マッチポンプ奨励コピーです。私には無理です。




かたや、あるお母さんからのこんな投稿もありました。

「子供にGPSつけるんだったら、性犯罪者全員にGPSを埋め込んで、更生しても昔の八丈島おくりみたいに隔離してほしいし、そういう性犯罪者を喜々とさせるような児童ポルノやマンガを書く人々も全員去勢して欲しい。」

・・・サイトをみる限りはふつうの保護者の方たちのサイトのように見受けられました。

あなたのほうが怖いです。


ミーガン法とか性犯罪者の情報公開って、簡単にいいますけど、顔写真等が掲載されてるアメリカのサイトみたことあります?(Sex Offenderとかで検索したら簡単に出てきますので興味あればどうぞ)。私も見ましたが、はっきりいって怖いですよ。でも見たからって、どうすんのかなーと思います。アメリカでは下記の記事のように殺しにいってしまう人もいるようです。もっと怖いです。このようなセキュリティは「安心・安全」を作ってるのではなくて、「恐怖」のみを作ってるでしょう。

「論座」に記事を書きました。



まあ、お母さんお父さんたちの気持ちはわかるんだけど(現場を知らないからなんとも言えないけど)、最近、逆の意味で、社会に歯止めがきかなくなりつつあるような。メディアや政治も煽っちゃってて止まんないし。というか、安原さん、さらっと辛辣すぎ(笑)。



で、その「論座」から。↓


・・・ここに書かれているのは、子どもに差し向けられたきわめて自然な愛情の発露だ。かつてであれば地域コミュニティーが生成し、住民同士を結びつけていたはずの日常生活の一コマが、「殺されるかも知れない」という恐怖の瞬間と化している。
 
体感治安の悪化という実態なき不安が流布するなかで、地域コミュニティーの再生こそが治安回復の鍵だと唱えられる。警察は治安を軸に地域の再編を主導するが、そのような動向に住民たちのノスタルジーが絡み合う。そして、個人情報保護法の呪縛が個人情報を危険物にすることで、従来的なコミュニケーションを破壊する。そこに民間のシステム会社が代替ネットワークを構築し、学校の連絡事項とともに不審者の出没情報をばらまいている。
 
相乗効果で不安は肥大化し、住民たちが生活する日常の風景は一変する。地域コミュニティーの再生どこではない。そこには決して、牧歌的な風景などは現れず、まったく反対に、見知らぬ人が不審者の仮面をかぶって現れるこの共同体では、住民たちは相互によそよそしい、ときには恐怖すべき存在と化すのである。
 
私たちは「監視国家」の住人だというのは、よく言われることだ。個人情報保護法反対の大合唱が起こったときも、批判の論点は監視国家化というものだった。だが、現在、目にしている光景は、国家権力が住民の一挙手一投足を監視しているという事態ではない。
 
不審者というカテゴリーを介して排除すべき対象を発見する、そうした行動が集積していくような仕組みが増殖しているのが、私たちの社会の姿なのである。そしてそれこそが、きわめて危険が病理にほかならないのだ。

増殖する「不審者情報」 芹沢一也 安原宏美 




ついでに。↓


国や自治体、企業、地域が一丸となって、安心で安全な街づくりをするために治安管理体制の構築を推し進めている

このような治安管理体制を築くことで、人々は安全と安心を手にすることができたのか。手にしつつあるのか。そのような地域社会ははたして、本当に犯罪に強い場所になっているのか。

皮肉なことにまったく別なもののようにみえる。わたしたちの社会は安全や安心を得るどころか、反対に永遠に鎮められることのない不安を抱え込んだようにしかみえない。

治安管理によって不安を拭い去ろうとする社会は、恐怖と治安の終わりないスパイラルに巻き込まれる。それはどこかで起こった犯罪に過剰に反応しパニックを起こす。・・・

まだあわぬ犯罪に恐怖を覚え、過剰なmでの警戒態勢をしくならば、それが解かれる日は決してやってこない。不安に駆動された治安管理体制は、メディアによって日々、供給される「恐怖」を糧に強化されていくだけだからだ。そこでは、恐怖は減ずるどころか、高められる一方なのだ。・・・

だれにとっても痛ましい、そして起こってほしくない凶悪犯罪という圧倒的な事実を全面に押し出し、いまや安全は崩壊しているという「不安」を煽る。そして、社会全体が「危機意識」を共有せねばならないと説き、社会が一体となって犯罪に立ち向かわなければならないと呼びかける。

こうしたロジックに支えられて、現在、治安管理が社会の隅々にまで毛細血管状に広まりつつあるのだ。だが、このロジックには前提となるべき論証された「事実」がひとつもない。すべてはレトリックに支えられて・・・


実はいかなる統計をみても治安は悪化していないし、凶悪犯罪に巻き込まれる可能性など個々人のレベルで考えたらほどんど皆無。ーーーー強調 色つき

たとえば殺害された小学生の数が、1990年以前と比べて人口比でもかなり減少したまま安定している。実数では76年は100人、82年は79人だったのに対して、04年は26人である。

だが、問題はさらにその奥にある。それでもやはり治安への意思がやまないのは・・・人びとのあいだにある種、「快楽」のようなものが発生しているからなのではないか。・・・

・・・ひとつの敵を前にして、一体感を感じるという快楽だろう。・・・治安管理は人びとにやりがいや生きがいを与えているのだ。・・・

結局のところ、不安と快楽とがない交ぜになって、セキュリティーの意識が先鋭化していっている。しかも、それは現在、子どもたちを守らなければならないという「善意」と、犯罪者が怖いという「恐怖」の両輪によって回っている。善意と恐怖はその際限がきわめて判断しにくい。よって、不安と快楽を燃料に昂進し暴走していく可能性がある。

だが、快楽と不安によって、人々がもろ手を挙げて治安管理に突き進むとき、失われるものが自由だとしたらなら、それはあまりにも大きな代償。わたしたちが手にするのが安全や安心どころか、ただ団結し恐れあう仲間たちの一体感だけだとしたら、そこに何の意味があるというのか。

「子どもを守れ」という快楽 不安にとりつかれた社会で 芹沢一也 「論座」2月号




もう一つ。↓

わたしたちの社会は90年代後半、「犯罪者」から「セキュリティー」へと犯罪に対する関心をシフトさせた。かつて犯罪は犯罪者を焦点に語られていたし、またそうした関心のなかで社会は犯罪を受け止めていた。だが、現在はまったく違っている。もはや犯罪者への関心は主要なテーマとなっていない。代わりにセキュリティーとのかかわりにおいて犯罪が捉えられるようになったのだ。

死刑判決前後に宮崎事件についてコメントした言論人のなかで、この変化にもっとも敏感だったのは管見のかぎりでは大塚英志であった。彼は次のように述べている。

僕は同世代の犯罪として受け止めた。それまでは事件があると、社会にも問題があると考えるのが当たり前だったが、今はだれもそう考えなくなった。宮崎被告のような人間をいかに排除するかという議論になっている(「東京新聞」06年1月16日付)

「誰が殺したのか」から「どうやって守るか」へ 芹沢一也 「論座」4月




まあ、子どもが犠牲になる犯罪は、圧倒的に家庭内のものが多いようだけど。



ついでに、ミーガン法の話はこちらがおすすめ。↓

ミーガン法のまとめ @ macska dot org



ついでに。↓

芹沢一也blog 社会と権力

女子リベ  安原宏美--編集者のブログ ネオリベなる毎日からリベラルを考えてみようかと
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by mudaidesu | 2006-05-07 22:50 | ニッポン


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