森田健作 愛国心は米国の要求


だった。って話。(森田さんは別の話ね。)


小熊英二が、愛国心は50年代はじめに米国が日本に要求したとどっかで書いてたか言ってたかしたけど、具体的によくわからなかった。というか、自分で調べるの気がないというか、そういういいかげんな奴なんで僕は。




そしたら、とむ丸さんが書いてた。全文転載(保存)しちゃう。


「愛国心」は、米国の要求でもあった


さて、1953年の秋、当時の首相吉田の密命を受けた特使池田勇人が米国ワシントンに飛び、国務次官補ロバートソンと1ヵ月に及ぶ会談を行っています。

いわゆる「池田特使・ロバートソン国務次官補会談(1953年10月5日―30日)」です。


当時の米国大統領は53年7月に朝鮮戦争休戦協定、そして同年10月に大韓民国、54年12月に中華民国(台湾)と相互防衛条約を結び、同54年9月にSEATO東南アジア条約機構を組織した、共和党アイゼンハワーです。

MSA協定(日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定)締結の予備会談として秘密のうちに進められたこの会談は、その議事録を10月25日の朝日新聞にスクープされました。

この会談については、1991年10月5日の毎日新聞にも取り上げられています。

日本側に突きつけられた再軍備の要求をかわしていった様子を見ると、まだ戦争の記憶が強く残っていた時代の社会の雰囲気が想像されます。



今日はまず、

「これまでの会議の進捗によつて,両国代表は議事日程に掲げられた諸問題について若干はつきりした諒解に近づいたことが示された。日本代表は到達せらるべき諒解が本国政府によつて承認をうけ,その使命を全うすることができると確信を深めるに至つた。この文書は従来までに達成された結果及び今後合意を要する事項を議事日程順に要約するものである」

に始まる、10月日19日付「池田特使覚書」の中の「愛国心」に触れた部分を見てみます。


(引用開始)

一、日本防衛対と援助

(一)日本代表は充分な防衛隊をもつには四つの制限があることを強調した。その制限とは法的,政治的ないし社会的,経済的及び物理的なものである。
……

(二)
……

(ハ)本会議参加者は,日本国民が自己の防衛に関しより多くの責任を感ずるような気分を国内につくることが最も重要であると意見一致した。愛国心と自己防衛の自発的精神が日本において成長する如き気分を啓蒙と啓発によつて発展することが日本政府の責任である。

(引用ここまで)



「十分な防衛隊をもつ」上での4つの制限、「法的,政治的ないし社会的,経済的及び物理的なもの」とはそれぞれ、

・憲法上の制限

・占領8年間で、「何事が起ころうとも銃を取るなと教えられた」若者、女性、知識層、遺族たちを納得させる困難さ

・国家防衛の第一歩を国民生活の保護とすべきこと

・募兵に伴うさまざまな困難・危険性

の4つであることを日本側は説明しています。



池田は、憲法を改正してでも陸上防衛力を増強するように迫る米側に対して、「憲法改正はできない」と突っぱね、まず復興に役立つ経済援助を要求しましたが、これには別に経済協力協定を結ぶ必要があったということです。

翌54年5月1日、日米相互防衛援助協定が発効し、防衛庁が設置され、自衛隊が発足しましたが、池田は会談で、直接侵害に対する防衛は憲法改正せずにできると明言していたようです。

そうした中で、日米共に、「日本国民が自己の防衛に関しより多くの責任を感ずるような気分を国内につくることが最も重要であると意見一致した」ところに興味をそそられます。

こうした米国側の要求と日本側の保守勢力の思惑は、当時より一致していたのですね。ただ、時期尚早ということだったのでしょうか。

20世紀は戦争の世紀、とよく言われますが、米国は、一貫して、よく戦争をしてきました。

 
そして21世紀、テロへの戦いを合い言葉にして始まった戦争。

平行して私たちの国でも、「自己の防衛に関してより多くの責任を感ずるような気分を国内に作る」試みが続けられてきました。

ついには、ぷらさんによれば、大阪では教育勅語を暗唱させる幼稚園が2つも出てくることに! 

いったい、誰が、何のために「愛国心」を叫ぶのか、もう一度考えてみましょう。


http://tomkari.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/__75bb.html





愛国心についてはいろいろしつこくグダグダ書いてきたけど、結局のところここなんだと思うんだよね論点は。愛国心推進派の本音は。いかに国家の命令に従い喜んで死ぬ人間を育てるかということ。

これについては、こういう発想や概念そのものを全否定する気はない。ただ、日本の過去や、日本の状況を考えれば(一言で表現しちゃえば、日本や日本人の生存はまったく危うくない。日本人は十分公共心的なものを持ってると思うし)、こういう路線は日本には必要ないと思う。

それに、愛国心フェチのおじさまたちがこういうのをはりきってやるとかなりアグリーな状況になるのは確実だし。その前に、民主主義や自由や人権についての感性(これこそが公の利益になる個人のモラルでしょう)をより成熟させていくべきかと。






ところで、森田健作さんの魂を込めた「I am 日本人」って映画が公開される。↓


公式サイト→http://iam-nipponjin.com/



手元にある雑誌によると「大和魂の国、日本に憧れを抱いて来日した日系3世の女性の目を通し、自分の国に誇りを持てない日本の若者たちを描く」そう。



森田さんのメッセージからちょっと引用。↓


個人のモラルが崩れ、親子が断絶し、家庭が崩壊し、学校も崩壊する。
地域社会の連携はなく、自らが暮らす「国」という概念すら危うい現代日本。

このような環境下に育つ子供たちや若者たちが、果たしてアジアを筆頭とする世界の人々を相手に、きちんと自らの主張を唱え、議論し、互いを尊重し認め合う関係を築くことができるのでしょうか?

残念ながら、答えは否です。
自らの国を愛せない人に、他の国、考え方や人を愛し、理解していくことは不可能だからです。

http://iam-nipponjin.com/page1.html




だからほとんどの日本人は日本が好きだし誇りに思ってるみたいよ、みたいなツッコミその他はおいておいて(映画のタイトルどうよ?ってのも、森田さんこそ「自虐的」なんじゃないの?ってのもおいておく)、こういう素朴なノリで愛国心を推進してるおじさま方が多いけど、素朴にそう思ってる人と戦略的にやってる人の二種類がいると思う。

戦略的にやってる人の本音は「国家の命令に従い喜んで死ぬ人間」を育てることなんだけど、世間にウケないから、こういう素朴系(俗流系)の議論をしてるのだろうなと。




ついでに、観てないのに、というか観てないからこそ他人が一生懸命つくった映画に対して"偏見"で文句言えるんだけど(観てない人間の特権)、この映画ってなんだか「日本人についての映画」ってより「ニッポン人についての映画」って気がする。

意味不明かもしれないけど、「外国人が想い描くニッポン人の姿」こそが、「あるべき日本人の姿」みたいな。なんつーか、肯定的バージョンのオリエンタリズム的ニッポン人描写を「あるべき日本人の姿」にしちゃってるのではと。

そりゃ、「自虐的」すぎませんかと。

この場合、「自虐的」ってのとはまた違うかな。うまく表現できない。



つーか、極端な話、「リトルトーキョー殺人課」的な映画に出てくるニッポン人をカッケーって思う西洋人の想い描くニッポン人を、日本人までが「あるべき日本人の姿」だと思っちゃうみたいな。

西洋人の「サムライ&ゲイシャ」ってニッポン人像を日本人自身が勘違いして逆輸入しちゃって、そしてそのニッポン人像の起源を忘却してしまい、それこそ日本人の伝統的な姿で、あるべき姿、みたいに思っちゃうみたいな。意味不明?





















いや、もちろん、「リトルトーキョー殺人課」は極端な例ですが。

というか、この映画大好き。5回くらいは観てる。もっと観てるかも。
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by mudaidesu | 2006-08-18 22:42 | ナショナリズム


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