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二つの意見 櫻田さん①


あるニュースについての二つの考え。てか、アップするのがめんどくてほっといた話だけど。




まずは櫻田淳さん。保守の人。産経新聞や世界日報で書いたりはするけど、アッチ系じゃない人。ブログの右っ側に「師」として山口二郎さんのページも紹介してるし。


防衛大学校長人事&富田メモ

「中々、いい人事だ」と思う。一昨日の「共同」記事である。
 
□ 防衛大学校長に五百旗頭氏 政府内定、8月1日就任へ
 
政府は19日、第8代の防衛大学校長に五百旗頭真神戸大教授(政治外交史)を起用することを内定した。近く閣議了解し、8月1日就任の見通し。防大校長は西原正前校長が今年3月末に退職後、空席となっていた。
 
五百旗頭氏は日米関係など政治、外交問題の論客として知られ、2004年秋に防衛力整備の在り方に関する報告書をまとめた小泉純一郎首相の諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」のメンバーを務めた。報告書は冷戦時代からの防衛政策の基本だった「基盤的防衛力」構想を転換、「多機能で弾力的な防衛力」の整備を提言し、04年12月に閣議決定した新たな防衛計画大綱の基礎となった。


雪斎は、学者出身の防衛大学校長といえば、猪木正道先生や西原正先生のことを思い浮かべる、両先生は、雪斎が尊敬する政治学・安全保障研究のの先達である。
 
この系譜に五百旗頭眞先生が連なることになるのは、誠に喜ばしい。
 
五百旗頭先生は、今の日本の政治学者の中でも、旧き良き「日本リベラリズム」の薫りを感じさせる人物である。「米国には保守主義はない。自由主義の伝統があるのだ」と語ったルイス・ハーツに倣えば、日本における「自由主義の伝統」を感じさせるのが、五百旗頭先生である。
 
軍事・安全保障に携わる若き人材には、そうした「自由主義の息吹」、「国際感覚」をちゃんと吸収してもらいたいものである。
 
山梨勝之進、堀悌吉、井上成美 山本五十六 米内光政…。戦前にも、こうした武官の系譜があった。武官が半ば「右翼」、「民族主義者」と同一視して語られる風潮は、そろそろ一掃したいものである。

http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_86f3.html




五十嵐仁さん。↓


7月23日(日)

晩節を汚すことになるのでは?

晩節を汚すことになるのではないかと心配しています。防衛大学校の校長に就任することが決まった、五百旗頭真神戸大学教授のことです。
 
どのような理由で、就任を受諾されたか分かりません。でも、あの五百旗頭先生も時代の流れに竿を差すことになったのかと、いささかガッカリしました。

五百旗頭さんからすれば、「安全保障と防衛力の懇談会」の一員になっていましたから、それほど違和感はないのかもしれません。いつか、私と一緒に掲載された共同通信のインタビューでも、軍事的安全保障を評価していましたし……。
 
しかし、それでも、基本的にはリベラルな立場であると思っていました。これまでの研究や発言は、基本的にはそのような立場に立つものだったのではないでしょうか。
 
五百旗頭さん自身、今日の『毎日新聞』の「時代の風」で、「中には『なぜ、あなたのような人が』といぶかる知人もいる。私が軍事関係者のようでなく、リベラルに見えるので意外に感じるという」と、書いています。

しかし、「私は安全保障をとても大事に思っている。安全保障とは、さまざまな脅威から国民の存在を守ることである」というのが、五百旗頭さんの説明です。だから、防衛大学校の校長を引き受けたのだ、と仰りたいのでしょうが、それは直接には結びつきません。
 
五百旗頭さんは、「国民の生存を守る」ための「最後の手段であるのが自衛隊」だとも仰っています。しかし、その自衛隊については憲法上の位置づけが問われ、「国民の生存を守る」どころか戦争に巻き込む恐れはないのか、米軍との一体化によって侵略の手先にされてしまうのではないかなど、さまざまな議論があることは、よくご存知のはずです。
 
そのような「新しい事態」の下で防衛大学校の校長になるということは、どのような意味を持つのでしょうか。この点に対する自覚や警戒感が、五百旗頭さんにはあるのでしょうか。・・・・

・・・・そのような「化学変化」を拒み、「国民の生存」を守るという方向で、大きな役割を果たしていただきたいものです。五百旗頭さんは「リベラルに見える」だけではなく、本当にリベラルだったのだという評価が退任に当たってなされることを、私としては願うばかりです。

http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/jingo607k.htm




個人的には、五百旗頭さんのことは全然知らない。新聞やテレビでしゃべってるのを読んだり見たりしたことがあるくらい(だと思う記憶に残ってるのでは)。印象としては「いいかんじな保守の人じゃん」。イメージ的には↑の櫻田さんの言ってるようなかんじだった。五十嵐さんによると「リベラル」なん?どうなん?

イメージ的にはリアリスト保守ってかんじがしないでもないけど。「旧き良き『日本のリベラリズム』」ってことはまあ、いわゆる保守本流ってかんじなんでしょうか。

五百旗頭さんがどういう人であるかの認識によってこの人事の話への反応が分かれるのかな。僕のイメージ的には「保守」の人だったんで(知らないくせ勝手にイメージするなだけど)、このニュースの感想は↑の櫻田さんの感想と同じだったんだけど。



ウィキを見てみたらこういうのも書いてたみたいね。

「つくる会の「新しい歴史教科書」を読む――同家の存亡だけで歴史を語る貧しさ」(『論座』2001年7月号)

「東アジアの安全保障秩序はどうなる――反中"原理主義"は有害無益である」(『中央公論』2004年5月号)

wiki 五百旗頭さん


この人は首相靖国参拝にも批判的なようだし。


というか、そもそも校長さんの影響なんてどんなもんかさっぱりわからんけど。

てか、校長さんって、いったいどんなかんじで選ばれて決まるん?ついでに、防衛大学校についても全然知らない。そういえば、親戚のおじさんが防衛大学校出身だった。自衛隊には行かなかったけど。


ウィキ 防衛大学校

朝日新聞記者(元産経)による防衛大学校留学記(全19回丸々)





というか、五百旗頭さんっていつも名前が発音できない。すぐ忘れる(笑)。コレって高貴なお名前かなんかなんでしょうか?ついでに、前にもちょっと書いたけど、僕の中ではいつになっても発音&国名を覚えられないのがシオラレオネ(あってる?)。・・・・あってない(泣)。シエラレオネ。シエラレオネのみなさん、すみません。





ところで、櫻田さんがなかなかうまいこと書いてた↓。


他国の友人にして自国には忠実で献身的な市民


・・・一般的にいえば、特に政治家であれ外交官であれ、「他の国々の友人であって、同時に自分の国には忠実にして献身的な市民」であることは、職業上、大事なことである。ただし、「他の国々の友人であって、同時に自分の国には忠実にして献身的な市民」であることは、実際には、かなり難しい。・・・


・・・加藤紘一氏は、外交官出身としての来歴から、「中国の友人であって、同時に自分の国には忠実にして献身的な市民」であろうとしているのであろう。しかし、現在の対中感情に悪化という客観情勢を前にしたとき、「中国の友人」である立場と「自分の国には忠実にして献身的な市民」である立場は、相容れないものであるかのような雰囲気が出来上がっている。「中国の友人」であることを拒否しようという姿勢にこそ、「自分の国には忠実にして献身的な市民」であることの証であると解する雰囲気があるのである。
 

無論、加藤氏の場合には、「中国の友人」であることが災難を招く因になってしまったけれども、特に戦前期の日本では、「米国の友人」であることが苦難を呼び寄せる因であった。言論の世界では、新渡戸稲造や清沢洌が挙げられるし、政府・軍関係者だと吉田茂、山本五十六といった人物が挙げられよう。雪斎もまた、自分の価値館や信条からすれば、「米国の友人」たり得ても、「中国の友人」たり得ない。もっとも、雪斎は、同時に「トルコの友人」、「イタリアの友人」であることには関心があるけれども…。
 

こうした「他の国々の友人」である姿勢は、どのような場合でも、「国賊」と「売国奴」と呼ばれる宿命から逃れられないところがある。特に日本のように国際協調の上にこそ国が成り立っているようなところでは、「自分の国には忠実にして献身的な市民」であるためにこそ、「他国の友人」でもあることは、大事なことであるけれども、そうした事情は、「日本の誇り」などを観念的に唱える民族主義者層には理解されない。他人に対して「国賊」と「売国奴」という言葉を投げ付ける人々こそ、主観的には「愛国者」、客観的には「亡国の徒」である。隣の国にも、そうした事例がある。否、他国の事情を引き合いに出すのが失礼ならば、六十余年前の日本を省みれば済むことである。

http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_b392.html



僕としては、加藤さん櫻田さんの両方とも相容れないけど、言ってることはよくわかる。てか、↑とほとんど同じことを産経新聞の正論コラムで書いてた↓。自分で気に入ったのかな?表現が違ってたり、ブログにもない部分とかあるんで、後半を一応転載。



■「他国の友人」を罵るのが愛国者か
■我が国の利益には何ら貢献せず
≪象徴的な加藤紘一邸放火≫


・・・一般的にいえば、政治家や外交官だけではなく一般市民にとっても、「他国の友人であって、同時に自分の国には忠実にして献身的な市民」であろうとすることは、大事な徳目である。ただし、「他国の友人」としての立場と「自国には忠実にして献身的な市民」としての立場を両立させることは、実際には殊の外、難しい。


この難しさを象徴的に物語っているのが、先刻、加藤紘一元自民党幹事長の邸宅が放火され、全焼した一件である。

加藤氏自身は、外交官出身としての来歴から、「中国の友人であって、同時に自分の国には忠実にして献身的な市民」であろうとしてきたのであろう。


しかし、現在の対中感情の悪化という客観情勢を前にしたとき、加藤氏が模索したような「中国の友人」である立場は、「自国には忠実にして献身的な市民」である立場とは相容れないものと解され、「中国の友人」であることを拒否しようという姿勢こそが、「自分の国には忠実にして献身的な市民」であることの証しと断ずる雰囲気が出来上がっている。

加藤氏の災難には、そのような雰囲気が漂っていることが影を落としている。


≪「米国の友人」標的の時も≫

もっとも、加藤氏の場合には、「中国の友人」であると認識されたことが災難を招く因になってしまったけれども、戦前期の日本では、意図したにせよ、せざるにせよ、「米国の友人」であることが苦難を呼び寄せる因であった。


たとえば「知米派」論客として知られた清沢洌は、戦時中、「これで臣節を全うしたといえるか、もっと戦争を避けるために努力しなければならなかったのではないかと一日中煩悶(はんもん)した」という日米開戦の日の感慨を自らの日記に書き残したけれども、その当時には言論活動の機会を奪われていたのである。


我が国は、国際協調の堅持の上にこそ国家の存立が成り立っている。そのような国情を前にすれば、「自国には忠実にして献身的な市民」である立場と「他国の友人」である立場とが互いに相容れないものと解する向きくらい、有害なものはない。我が国の人々が「他国の友人」として世界各国に多様な人間関係を紡ぐことは、大いに奨励されるべきであるし、我が国の対外「影響力」は、そのような多様な人間関係によって担保されているのである。


このように考えれば、他の人々に対して「国賊」とか「売国奴」といった言葉を投げ付ける人々は、「自国には忠実にして献身的な市民」としての姿勢を何より強調する点において、主観的には「愛国者」であるかもしれないけれども、客観的には「亡国の徒」と呼ぶべき存在である。


≪対外関係の多様さ損なう≫

そうした人々の言動は、我が国が普段から保つべき対外「人間関係」の多様さを損ねるものであるからである。

日露戦争期の「露探」に始まり、戦後の「洋娼」「米帝のイヌ」や近年の「媚中派」に至るまで、他の国々への姿勢を挙げて他の人々を罵(ののし)る言葉は、枚挙に暇(いとま)がない。しかし、そうした言葉は我が国の利益には何ら貢献しない。


筆者は、自らの価値観や信条に照らし合わせる限りは、「米国の友人」であっても「中国の友人」であることはないと思っているけれども、他の人々が「中国の友人」であることを妨げる気はない。政治家、外交官、学者などの言動を観察する折には、そのことの意味は絶えず留意されるべきであろう。

http://www.sankei.co.jp/news/060909/sir000.htm




それはそうと、僕からすると、加藤さんの方がより冷徹なリアリスト。国益のためならうんこな外国政府ともつきあっていかなければならない系。櫻田さんは、「自分の価値館や信条からすれば、「米国の友人」たり得ても、「中国の友人」たり得ない」と言ってるように、理念系な価値判断してるから(ようするに『リベラル』な価値観に基いてるのかな)、ゴリゴリのリアリストではないかんじ。


「雪斎は、靖国に同情的であったし、小泉純一郎総理の参拝には一貫して支持を与えてきた」と書いてるし(これも理念系な価値判断)、おまけに「しかし、雪斎は、そうした感情も醒めてきている。・・・「だんだん、どうでもよくなってきた…」。やはり、雪斎の心中にも、「秋の風」が吹いている」なんて書いてて、どっちにしろ、やたらと情緒的だから、やっぱ、ゴリゴリリアリスト系じゃない、少々情緒系保守みたいね。(靖国は「未来」を観ているか。





政治の世界に「○○主義者」は要らない。

・・・最近、オットー・フォン・ビスマルクの評伝『ビスマルク伝』(全8巻)を一通り読んだのであるけれども、誠に示唆深いものであった。
 
ジョージ・フロスト・ケナンは、ビスマルク外交の研究書を著しているけれども、「ビスマルクは、広く人口に膾炙した印象とは対照的に、厳密にいえば、ドイツ民族主義者ではなかった」と説明する。ケナンは、ビスマルクが、樹立されたばかりの帝国の護持を第一に考えた「有能にして権限を伴った忠臣」であったと指摘する。

実際、ビスマルクの政治指導にイデオロギーはない。ビスマルクの対外政策の中では、「フランスの孤立化を徹底して図った」というのが教科書的な理解であるけれども、イギリスが1880年代にエジプトを占領した折には、対英牽制の意味合いで対仏接近を図っている。こうした機会主義的な側面がなかれば、まともな政治指導は機能しないのである。
 

もし、安倍氏が新宰相になるのであれば、これからの時間は、その保守主義・民族主義のイデオロギーの色彩を徹底して消し去る過程でなければならないであろう。少なくとも、昨日が安倍氏における「保守主義イデオロギー」の頂点であったということにしてもらわなければ、この先は危ういであろう。宰相は、「民族主義者」や「保守主義者」ではなく、「天皇陛下の忠実な臣下」でありさえすれば、それでいい。

http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_6b0d.html



最後のパラグラフなんか、この人らしさが出てますね。


これに関連して、ついでに、櫻田さんがいろんなとこで言ってる持論(?)は、「政治家」と「政治活動家」の違い。


筆者は、政治という営みに直截にかかわりを持つ人々には、「政治家」と「政治活動家」の二つの種類があるのではないかと考えてきた。政治家の行動準則は、異なる理念や利害を持つ相手を前に、「利益の調整、微調整」を図るということである。そこでは、「妥協」は当然の技術である。方や、政治活動家の行動準則は、自らのイデオロギーや理念の上での「大儀」を実現することである。そこでは「妥協」は「大儀」の純粋性を汚すものとして嫌われるし、異なる理念や利害を持つ相手は、「静粛」や「総括」の対象でしかない。

http://mudaimudai.exblog.jp/2571458/


このへんがやっぱ現実主義的「保守」たるゆえんかなと。そんで、昨今の「いわゆる保守」とは全然違ってて、櫻田さんに言わせれば、昨今の「いわゆる保守」は「政治活動家」または「政治運動家」だと。↓



■ 『論座』今月号が届けられる。「元祖「タカ派」が憂う「タカ」の増殖」という見出しが眼を引く。山崎拓、石破茂の二人の「自民党内安全保障プロフェッショナル」のインタビューが載っている。

● 山崎 拓(自民党安全保障調査会長)
元祖「タカ派」が憂う浅慮な「タカ」の増殖

● 石破 茂(前防衛庁長官)
生粋の愛読者が抱く「正論」「諸君 !」への違和感

山崎先生も石破先生も、結局、感じていることは雪斎と同じであったようである。「正論」も「諸君!」も、「運動」に肩入れし始めてから、完全に変質した。歴史教科書にせよ邦人拉致にせよである。だから、そこに多く載っているのは、たとえ大学教授という肩書を持っていても、実態としては「活動家」と呼ぶ他ない人々の文章である。「活動家」の文章が、どのようなものになるかは、推して知るべしであろう。「運動にかかわりを持つな」。この戒めは、確かに正しかった。

http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_fbf6.html



僕自身は現実主義的保守じゃないんで、「政治活動家」を否定する気はない。

その「政治活動」の理念や内容次第で判断。そんな人ばっかじゃ困るけど。


ただ、現実主義的保守の役割は歯止めというかバランスを保つことなはずだから、保守側から現実主義的な要素が失われていくというか、現実主義的な人たちが弱くなるのはヤバイと思う。これは、何度も書いてるけど、アメリカでもそう。(愛国心vs祖国愛 2  国益主義


というか、せめて櫻田さん系の人が保守側の主流であってほしいですよマジで。というか、櫻田さんだってだいぶ右だと思う。靖国参拝を支持してきたのなら。もちろん、靖国参拝を支持しないような現実主義的保守派が元気バリバリならそれでいい。(靖国問題について

というか、実際、数だけでいったら、靖国参拝を支持しないような保守系の政治家や知識人の方が圧倒的に多いんだろうけど、政治的影響力という面ではねえ。安倍さんのブレーンと言われてるような皆さんなんか見るとねえ。



ちなみに、自分でもしつこいと思うくらい、このエントリー以外でも「リアリスト」や「現実主義(リアリズム)みたいな表現を連発してるけど、なにゆえかは「愛国心vs祖国愛 2  国益主義」に書いたようなかんじ。

ついでに、「エグイ文章を見つけた。」 で紹介した古森義久さんが自分たち系の人たちを「現実派」とか書いてるし。だからこそ、「リアリスト」や「現実主義」みたいな表現を連発してる。古森さん系を「現実派」とは思わないから。僕の理解する現実主義やリアリズムとは相容れない。


おまけに、ややこしいんだけど、僕自身、リアリズムは知的には好きだけど、自分の立ち位置ではない。理念とか道徳とか情緒みたいのはとても大切だと思ってるんで(国際政治においても)。保守派にもリアリズムゴリゴリじゃなくて、日本人らしさとか日本人の美徳みたいなもんを大切にしてほしいと思ってるし。


ただ、何度も書いてるように、最近の日本の情緒的保守派のノリがたまらなく嫌。超非科学的なことまた言うけど、というか何度も書いてるけど、最近の日本の情緒的保守派は全然日本人らしくない。日本人らしさ、日本人ならではの良さ、日本人ならではの美徳、そういうものが決定的に欠けてると思う。




ところで、ちょっと視点を変えて考えてみると、僕自身、アイデンティティがいろいろ分裂してるんだよね。地球市民な僕とか、日本国民な僕とか。

コメント欄(エントリーでも似たようなこと何度か書いたけど)で、「理念的には私は改憲ですけど、私の改憲って、まったく日本から乖離した話なんですよね。非国民的改憲(笑)。まあだいぶ「護憲デビュー」がせまってきてるような気もしますが(笑)」とか書いた。

この「非国民的改憲」ってのは「地球市民な僕」の発想。「日本国民な僕」がナショナリストとして日本や日本人の利益を考えると現状では「護憲」になるような気がする(もちろん[地球市民的護憲」もありえるけど。特にイラク戦争後は)。で、最近、地球市民度がダウンで、日本国民度がアップしてる僕なんだよね。

で、中国(北朝鮮もかな)を巡る日本外交についても似たような構図が当てはまる。「地球市民な僕」からすりゃ、中国共産党独裁政権なんて大嫌いでアレなんだけど、「日本国民な僕」からすりゃ、ナショナリストとして日本や日本人の利益を確保しなきゃ、みたいに思ったりするわけで。



つづき。↓

愛国保守国旗国歌① 櫻田②
by mudaidesu | 2006-10-04 13:10 | ナショナリズム


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