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国旗保守国歌愛国②


愛国保守国旗国歌① 櫻田②」のつづき。




小倉弁護士がこんなことを(この問題について他にもいろいろ書いてる)。↓


君が代訴訟論争に見られる保守の退潮

本来の保守というのは、中央権力が地域社会を含めた部分社会の意向や伝統を蔑ろにして自分たちが頭の中で考えた「理想の国民像」を全国一律に押しつけることに対しても懐疑的であるはずであって、そういう意味では、入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の全国一律の義務づけに反対ないし懐疑的なのが中道?左派にほぼ限定されているという現象は、日本の保守層の弱体化を物語っているような気がします。

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2006/09/post_6371.html


たしかにそうかもで、保守は保守なりのバランス感覚や国家権力への猜疑心があって、「権力による全国一律なんたら」みたいな発想への嫌悪感があったのかも。「伝統的共同体」を守るためにこそ。

でも、「多様な伝統や文化や姿を持った我々の郷土」みたいなイメージすらもう日本の保守派から失われちゃったのかも。「我々の共同体」としてイメージできるものがもう「ゴリゴリの国家」しかないのかも。




んで、だいぶテキトーに単純化(ブレインストーミング(笑))して言っちゃうと、このへんが、いわゆる「都市型保守」(宮台真司概念)っぽいところなのかなと。いわゆる「農村型保守」にとっては、国旗国歌なんて、そりゃ大切かもしれないけど、別に決定的に重要ってわけじゃないのではと。そんな些細なことより「郷土」にとって大切なことが他にいろいろあると思えるのではと。


同じ保守でも、「身近にある守るべき我々の郷土」みたいのが日々イメージできるかできないかの違いかも。「郷土」や「共同体」のイメージが、故郷の山や河や街や肥溜や路地や地元のばーちゃんじーちゃんおじちゃんおばちゃんねーちゃんにーちゃん鼻水たらしたこきたないガキんちょ・・・・ってかんじじゃなくて、抽象的で漠然とした「日本国」ってくらいしかなくなっちゃってきてんのかなー、なんてだいぶ大雑把なこと思った。

地元のおじちゃんおばちゃんねーちゃんにーちゃんが国旗国歌問題で苦しんでも、そんなことはどうでもよくて、「オレの美しい日本」のイメージの方が大切とか。




で、似たような話を、「サイゾー10月号別冊『噂の眞相 闘論外伝』岡留安則vs12人の論客」で魚住昭さんが言ってたような。ガーっと立ち読みしただけだからあんま憶えてないけど、(「野中広務 差別と権力」を書いた)魚住さんがやたらと旧自民党的な「ダーティなハト」を好意的に評価してた。

こういう人たちは、地域の人たちといろいろ触れ合って向かい合ってきたからこその「ダーティなハト」だったと。漠然とした「国家がどうこう」みたいなイメージ政治じゃなくて、常に地域の人々の顔を思い出しそういう人たちのニーズを考えて政治をやってたんじゃないかと(もちろん票のためだとしても)。






まあそれはおいておいて、


まあ、あれは国旗国歌がどうだこうだや愛国心がどうだこうだじゃなくて、「反日教師」のあぶり出し&「反日教師」への嫌がらせでしょう。「反日教師」を力づくで黙らせることに快感を覚えてるだけかと。復讐なんでしょう。醜くすぎです。

「正統性」が必要な時代? 右翼と鷹派のコメント欄


と書いたように、「アレの目的」はどうせこんなかんじなんだろうけど。



・鳥海厳委員(元丸紅会長)「企業の改革でも、わずかの少数派はあくまでも反対。これは徹底的につぶさないと禍根が残る。特に半世紀巣くってきている癌だから痕跡を残しておくわけにはいかない」

・横山洋吉教育長「そもそも国旗・国歌については強制しないという(国旗・国歌法の審議における)政府答弁から始まっている混乱なのです」

・鳥海氏「だから、政府答弁が間違っているのです」


東京都教育委員(鳥海、米長、内舘)「言いたい放題」全集
「サンデー毎日」7/11号より
*暴走する「日の丸・君が代」強制の深層
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/04-07/040711sunday-mainichi.htm


こんなネタがあるようだし。





とにかくもうなんどもしつこく書いてるけど、愛国心や国旗国歌を同胞抑圧排除のために利用するのはいいかげんにしてほしいもんですわ。愛国心や国旗国歌ってのは、同胞愛の象徴でしょうにまったく。

同胞愛や他者への寛容なき愛国運動ってのは、それこそいわゆる「偏狭なナショナリズム」でしょって。愛国心や国旗国歌で同胞抑圧排除を容認・推進してて「健全なナショナリズムです」なんて、そりゃわはははははですよ。みたいなことは何度も書いてきたからほんともう飽きまくりなんだけど。


つーか、国旗国歌なんて国民統合の象徴、というか、国民統合のためのイデオロギー装置なのに、国民分断のために利用してどーすんだか。



「同胞を抑圧・排除」して快感覚えちゃってるような愛国心フェチの方々(東京都の人たちとか)とかって、「同胞愛」ってもんが欠如してるんじゃないの、って思っちゃったりもするわけ。

「同胞愛」ってのは、ナショナリズムの良い部分なのに、それが欠けてたら、後に残るのはまさにいわゆる「偏狭なナショナリズム」くらい。

自由民主主義社会での国民統合の原理は、参加と寛容であって、排除と恐怖じゃないでしょ。

しつこく愛国ネタ。僕のフェティシズム。


とか書いたけど。



共同体で共に生きる同胞である人質たちや教師たちをボロクソにして気持ちよくなったり、ボロクソにしてなんとも思わないなら、「同胞愛」が欠如してると言っていいかと。同胞がどうなろうと知ったこっちゃないってことだろうから。

憎悪を爆発させて同胞を叩くのに熱中するだけで、「共同体で共に生きる同胞」って感覚が欠如してるなら、正直、「保守」を名乗ってほしくないんだよねえ。そういう保守論壇の皆様たちには。

「生きたまま焼き殺されるかもしれない犯罪被害者である同胞」や「犯罪被害者である我が子が生きたまま焼き殺されるかもしれない同胞」や「なんも悪いことしてないのに、生きたまま首を切られて殺された同胞」への愛情や思いやりみたいなもんがまったく沸かないってのは、同胞愛がないってことでしょ。・・・・



やっぱ「保守」が人質たちに対してとるべき態度は、「まあいいよ。故郷に帰ってこいよ。助かってよかったな。みんな待ってるぞ。故郷でゆっくり休めや。これからはもうちょい慎重にな」だろう。

こういうのも「日本人の美徳」みたいなもんのような気がする。

イラク人質問題 20  香田さん切断処理と同胞愛


イラク人質問題についてだけど、似たような話かも。




国民を「束ねる」方向として今はすでに道徳的秩序主義が強まる方向にあると思う。「個人の愚行を認めるというオールドリベラリズム」というのはいい言葉で「党議拘束」で反対を封じるなどは最低である・・・・・。東京都庁にまでそういう空気が及んでいる。精神的統制が強化され、ご清潔主義が横行するのはウンザリする傾向なのだ。

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(五)


つーか、「都市型保守」の象徴であった「つくる会」の元名誉会長さんもこんなこと書いてたし。







これは、友だちが言ってたことなんだけど、日の丸・君が代問題は皇室典範改正問題にも通じるものがあるかも。「女系天皇いいじゃん」と大多数の国民は思ってるけど、反対派(男系維持派)を排除するような形で先に進むのは良くないと。一応、天皇は国民統合の象徴なんだから、できるだけ国民分断のタネにならないような方向で議論を進めなきゃいけないと。

(ちなみに、国旗国歌法ができたときにどんな議論がされてたかについては、僕はまったくまったく知りません(←調べろ)。)


たしかにそのとおりかも。「リベラリズム」みたいな概念を使っての議論より(→「ブログでネットなイスラエルとか愛国とか 2」の後半とか)、「国民統合・国民分断」みたいな視点からの議論の方が、受け入れられやすいのかも。んーでも、「反日サヨク」は「非国民」だからなー。排除&殲滅くらい「当たり前」なのかなあ。僕としては、何事についても分断超オッケーだけど、排除&殲滅はやめといて系。



ただ、皇室典範問題で分断をできるだけ回避しながら「落としどころ」を見つけるのは難しいけど(というか不可能)、式での国旗国歌問題において「落としどころ」を見つけるのは簡単でしょう。「落としどころ」なんて無数にあるはず。


というか、いままでゴタゴタしながらもなんとか「落としどころ」を見つけてやってきたんだろうし。そうやって先人たちが試行錯誤して培ってきた「知恵」や「慣習」や「伝統」や「文化」を無視してなにやってんだかまったく。ほんと、「伝統破壊」にはげむ「革新」的な方々ですね、石原さん都教委をはじめ監視処分強制推進してるみなさんたちは。



ついでに、象徴天皇制が広く受け入れられてるのは、公権力を使って押し付けなかったからでしょ。君が代・日の丸もちょっと前まではそうだった。まあ、君が代・日の丸を国民の間に浸透させることより、「反日左翼教師」を殲滅することの方が大切なんでしょうけど。だから「落としどころ」なんて考えてもいないんでしょう。「式のスムーズな進行」なんかより「癌の殲滅」の方に関心があるんでしょう。







「国際的なマナーを学ばせる」みたいな言説があるけど、なんだかなーだよ。まあ、どうせレトリックで方便で、↑で書いたように、そんなことを本気で目的にしてるわけないけど。

その「国際的なマナー」の話にあえて乗ると、そんなもんどうでもいいと思うんだけど。って、それじゃあ、「乗って」ないか。まあでも、決まったルールなんてあるわけでもないし。国旗国歌について国際的なマナーなんてないない。個々人の判断で世界の国旗国歌に接してくださいよって程度でしょ。

それに普通に日本人はそうしてるんじゃないかと。「旅の恥はかき捨て」行為以外のことにおいては、日本人は一般的にマナーがいいと言われてるし。んなことより生徒に叩き込むべきことは無数にあるでしょってねえ。レイシズムやヘイトスピーチとはなんぞとか、なんでそういうのがダメだとか。「国際的なマナー」とか言うならさ。



極一部少数の中国人や韓国人が日本の国旗を焼く?感じ悪いけど勝手にしたらどうかと。パレスチナ人がイスラエルやアメリカの国旗を焼く?勝手にどうぞでしょ。人によっては感じ悪いと思うだろうし、他の人は政治的意思表明だと思うだろうし。

効果はともかく、僕としては国旗を焼くだの権力者の写真を焼くだの踏むだの壊すだの(万景峰号来航の際、「救う会」系のみなさん?も将軍さまの絵とかぶっこわしてた)の、そういう政治的表現は超オッケー。(ちなみに、日本の右翼さんたちがどのような表現方法をとってるかは、日本のメディアが全然流さないんでよくわからん。)



「他人のもんは余程のことがないかぎり大切にね」とは思うけど、国旗国歌程度なら、余程のことがあるなら個々人の勝手かと。僕には余程のことがないのでどこの国旗でも国歌でも普通に接するけど。

というか、普段の生活で接する機会なんてゼロだけど。つか、ほとんどの人はゼロでしょ、先生たちを抑圧排除殲滅してまで叩き込まれた「マナー」を披露する機会なんて。



僕としては、スポーツの試合を観たときくらいだよ、そんな経験。それ以外に記憶にない。もちろん、国際試合はともかく、スポーツの試合で国旗国歌なんていらんと思うけど。(ウケるネタめっけ。愛国ネタ。


で、みんな立てば、そりゃ余程のことがないかぎり立つって。周りに合わせるのが得意な日本人だし。別に、「敬意」どうこうじゃない。「礼儀」どうこうでもない。それで十分でしょ。んで、余程のこと(思想良心の問題とか)があって立たない選択をした人については、その判断を尊重すればそれでいいでしょ。

別に、立たない人がいたって、何の問題もない。


そういう場面で、ぎゃーぎゃーわめいたり「妨害」したりしたら「マナー違反」かもしれないけど(政治的にあえてそういうことをアピールとしてやることすべてを否定するわけではない。自国が戦争中だったりとか。自分の知り合いが政治犯として捕まったとか。)、静かに座ってりゃ、ああ、立たない理由があるんだな、と思われるだけでしょう。誰の迷惑にもならない。それに、自分の信念に基いて行動するってことは大切なことでしょう。それを他人に迷惑かけずにできるなら、いいことじゃん。

そういう人間に対して、疎ましく思う気持ちはわかるけど、どっちに問題あるって、そりゃ、疎ましく思う方でしょう。そんくらい寛容になれよと。というか、ほっとけよと。スルーしろよと。



正直、「敬意を払いたくない度」でいったら、北朝鮮やら中国やらの国旗になんて僕としてはそりゃ敬意を払いたくないって(最近のアメリカもひどいからアメリカもかも。前のエントリーで書いたことと微妙に矛盾するけど(笑))。別に敬意を払うような状況にも、「立つ」ような状況にも出くわしたことないけど。

でも、そういう状況に出くわしたら、へタレな僕だし、あえて立たない選択するほどのこともないし、「立つ」だろうけど、だからといって「敬意を払って」るわけじゃないし、「マナー」がどうこうってほどのことでもないでしょう。そして、もちろん「中国や北朝鮮の国旗国歌に対して立たない選択」をした人間を「マナーがなってない」なんて思わない。「余程の思いがあんだろうな」と思ってもちろん尊重する。


まあ、たとえほんとにこの「マナー」が大切だとしても、ほんとにこの「マナー」を教えようとしてるだけだとしても、「監視&処分つきの強制」が正当化されるわけじゃもちろんないけど。








ところで、「式」ってそんなに大切なもの?「生徒の一生の思い出」がどうたらこうたらみたいなこと言って、先生たちへの「監視&処分つき強制」を正当化するような言説もあったりするけど。僕的には、「式」なんて「うぜー」程度の認識しかなかったけど。

とにかく、何人かの先生が座ってるだけって、誰も気にしないでしょう。もちろん「妨害or混乱」になんてなるわけがない。というか、「式」で先生がどうしてるなんて誰も気にしちゃいないでしょう。ほとんどの人には見えないし。その程度で、「一生の思い出になる大切なイベント」が台無しになるってことはありえないでしょう。



それに、モメた方がはるかに勉強になるのではと。こういう問題でモメてるということを認識するだけでも勉強になるはず。愛国にしろ、歴史にしろ、国家にしろ、自由にしろ、権力にしろ、天皇にしろ、戦争にしろ、日本にしろ、いろいろなことを考える機会になったりするのではと。

こういうことについて思考停止にならないですむって、すごく幸せなことでしょう。こういうことで悩むのって、自由と民主主義にとって最も大切なことなんじゃないかなと。最近の日本人はこういう問題について質が高くて貴重な議論をいろいろしてると思う。世界に誇れる議論をしてると思う。人類の貴重な財産になるような議論をしてると思う、ってのは言い過ぎか。



「生徒へ示しがつかない」みたいな話もあるけど、何をもって「生徒への示し」とするかについて合意なんてない。僕としては、身をもって、思想良心の自由の大切さや自由と権力の問題について「生徒へ示す」ことの方がはるかに有意義だと思うし。まさに「自由民主主義国家における教師の本分」かと。理不尽な権力行使に納得いかなかったら、納得いかないと表明し世に問うことこそ国民の義務だろうし。それこそ「不断の努力」。


まあ、たとえほんとに多くの生徒たちにとって「式」が一生の思い出になるほどのイベントで、何人かの先生が国旗国歌やってるときに座ってることがゆゆしき混乱をもたらしているとしても、「監視&処分つきの強制」が正当化されるわけじゃもちろんないけど。









つーか、「礼儀」とか言うなら、日の丸・君が代を同胞抑圧排除殲滅に利用することこそが、国旗国歌への「礼儀」がなってない。日の丸・君が代に失礼でしょう。むしろ同胞愛の象徴である国旗国歌への冒涜でしょ。


『君が代がかわいそうだ。ただ「強制」の道具にされているだけだ。左翼教師や「内心の自由」を持った教師を苛める為の道具にされている。「国歌」として大事にされてない。尊重されてない。まるで「拷問の道具」だよ。「踏み絵」だよ。』

http://mudaimudai.exblog.jp/2624889/


と鈴木邦男さんが言ってたとおり。






ちなみに、余談だけど、僕自身、君が代・日の丸に強い思い入れはない。数年前まではふつーに愛着あったけど、「強制」を知って以来、愛着がどんどん薄れていってるんで、愛着がまったくなくなっちゃう前にはやく「強制」をやめてくださいおねがいします。骨の随まで『反日』になっちゃう前にたのんます。

最近はもう、雑念入りまくって素直な気持ちで日本を応援できない気がしちゃうから、スポーツの試合前の国歌は意識的に見ない(←ちっちゃい奴)。自分でもアホかと思うけど、感情ってもんはどうにもならないんだなこれが。まさに「心の問題」。偉大なる宰相が言ってたとおり。

というより、やっぱ、「国旗国歌はイデオロギー装置」だってことをまざまざと見せ付けられて、そのイデオロギーの暴力性を理解・実感したからかな。なかなか自分の感覚を表現するのって難しいですね。



けど、君が代・日の丸が大嫌いなみなさんの気持ちは理解できても、同意はしない。

先生方の「強制に対する闘い」「思想・良心の自由を守るための闘い」は応援してるけど。同意できない人たちによる「異議申し立て」を支持する立場。自由及び権利を侵されたと思ったときに異議申し立てするのは国民・市民の義務だろうし、それこそが「不断の努力」かと。



偏見かもしれないけどちょっと。

「血塗られた日の丸」「納得いかない君が代」を否定するのって、原理原則を重んじるという意味では尊敬に値するのかもしれないけど、「過去」について「汚れたもの忌避する」「綺麗で無垢なものを求める」みたいなところがどうも僕としてはなじめない。

ある意味、「戦中日本の短所なりをどうにかこうにかしたい」みたいな「つくる会」系のみなさんのノリに近いんじゃないかと思ったり。方向性が逆なだけで。「美しいもの」「美しい国」をムリにでも希求するみたいな(特に「過去」について)。偏見かもしれないですが。



この点、桜田さんがコメント欄で言ってた感覚は理解できる。違いは、その先生たちへの違和感より、「監視&処分つき強制」「同胞抑圧排除殲滅」に対する違和感の方が、僕にとってははるかにでかいってこと。って、これこそ「当たり前」でしょう。そういう僕としては、「監視&処分つき強制」の正当化のために、いくら先生たちへの違和感を語られてもまったく説得力をかんじない。




君が代問題の不起立処分、反対61% 都議選で本社調査 2005年06月29日
 

朝日新聞社が25、26日に実施した東京都議選に関する世論調査の中で、都教育委員会が都立学校の卒業式などで「君が代」斉唱時に起立しない教職員を処分していることへの賛否を聞いたところ、反対が61%で、賛成28%の2倍以上にのぼった。若い世代ほど反対と答える傾向が強く、20代では7割を超えた。
 
世論調査では「卒業式や入学式などで『日の丸掲揚』と『君が代の斉唱』を義務づけたうえで、従わない教職員を停職などの処分にしている」と説明し、賛否を尋ねた。
 
年代別でみると、20代は賛成15%に対して反対73%。これが40代では賛成30%、反対65%になり、70歳以上では賛成43%、反対40%と賛否の比率が逆転した。
 
男女の年代別で見ると、最も反対が多かったのは20代女性の80%、最も賛成が多かったのは70歳以上の男性の50%だった。

支持政党別にみると、自民支持層は賛成49%に対して反対41%、民主支持層は27%対70%、公明支持層は19%対66%、共産支持層は14%対82%、無党派層は20%対67%。自民党は都議会などで都教委の方針を支持する姿勢を示しているが、同じく知事与党の公明党の支持層は、反対が賛成の3倍以上に達している。
 
石原慎太郎知事の支持層では、賛成38%に対して反対53%だった。
 
都教委は03年10月、都立学校の卒業式などで君が代斉唱時に教職員の起立を義務づける通達を出した。



前に紹介したけど、こんな世論調査結果があったみたい。この(朝日新聞の)世論調査を信頼するしないは別にして、世間の多くの人の感覚は僕と似たようなものなのでは?と思ったりもする。先生方にも違和感あるけど、「強制&処分」「同胞抑圧排除殲滅」の方がはるかに違和感があると。

「先生方ヘン→強制&処分オッケー」「センコーたちいけすけねー→公権力使ってつぶしてやれ」なんてあまりにも短絡すぎだし、実際、そういう直情的な回路で物事を判断してる人が圧倒的に多いわけじゃないとは思う。

ちゃんと分けて考えることができてる人がけっこういるのではと。若い世代になればなるほど、日本国憲法に体現される「リベラリズム」が感覚的に浸透してる可能性も(←「悪の組織」の洗脳教育のせいかも)。





で、僕的には、日の丸・君が代なんてちょうどいいような気がする。「いわくつき」くらいの方がいろいろ振り返ることができていいのではと。「血塗られてる」くらいの方が、「歌詞どうよ?」くらいの方が、いろいろ大事な問題について思いを巡らすことができるのではと。


(↑で似たようなこと書いたけど)愛国にしろ、歴史にしろ、国家にしろ、自由にしろ、権力にしろ、天皇にしろ、戦争にしろ、日本にしろ、いろいろなことを考えつづけることができるのではと。こういうことについて思考停止にならなですむって、すごく幸せなことでしょう。こういうことを考えるのって、自由と平和と民主主義にとって最も大切なことなんじゃないかなと。「いわくつきの国旗国歌」なんていいかんじの入り口なんじゃないかと。




まあ絶対にありえない話だろうけど、国旗国歌を変えようという話になっても、僕は君が代・日の丸を選び直すと思う。もちろん、本音としては、国旗国歌なんてどうでもいいっつったらどうでもいいし、いらんつったらいらんし、数年前までは僕の中にあった君が代・日の丸への無邪気な愛着もほとんど消滅してしまったけど(愛着があったときですら「国旗国歌なんてなくてもいいでしょ」とも思ってたけど)、現実社会の「落としどころ」としてはって意味ね。
by mudaidesu | 2006-10-04 13:19 | ナショナリズム


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