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政治的に正しすぎる「父親たちの星条旗」――「硫黄島からの手紙」は?


「ミュンヘン」について"政治的に正しくない"(とまでは言ってないけど。というか「アラブ人を描いたアメリカ映画としては十分"政治的に正しい"ってノリで書いたけど)みたいなことを前にくどくどだらだら書いたけど(「ミュンヘン」とか宗教右派とか他のこととかミュンヘン 2  政治性とのつきあい)、「父親たちの星条旗」は"政治的に正しい"




ほんとに正しい。これほど"政治的に正しい"映画なんてあんまねーだろってくらい"政治的に正しい"。というか、第二次大戦のアメリカを描いた作品とは思えないくらい"政治的に正しい"。すさまじいまでに"政治的に正しい"。


ゆえにこの映画はつまらない。

あ、言っちゃった。

いや、いい映画だとは思う。多くの人に観てもらいたい。世界中の政治家さんや偉い人たちに観てもらって冷や汗でもかいてもらいたい。メディアの方々や広告関係のみなさんたちにも観てほしい。って、プロパガンダはうまくやらんとな、って教訓にされちゃうか。というか、後に暴露されてもそのときうまく行けばそれで成功か。



それはともかく、しつこいけど"政治的に正しい"作品。"politically collect"すぎ。どのように"politically collect"なのかについては、あちこちで言われてるだろうから省略。


つか、"政治的に正しくない"映画を観ると、それはそれでムカツクし、なんだかなーってなるんだけど(たとえばいろいろ大変だった「英雄の条件」とか)、"政治的に正しい"映画を観ると、それもそれでなんだかなーとなってしまうのはただひねくれてるだけなのでしょうか。


(そういや、この前「マーシャル・ロー」やってたけど、この映画も「アラブ人を描いたアメリカ映画としてはかなり"政治的に正しい"作品」。昔(9.11以前)観たときはあんまそういうこと考えなかったけど、今考えるとだいぶ政治的に正しい。9.11直後、日本でテレビ放映が自粛されたって話を聞いたけど、9.11直後こそ、あの映画をやるべきだったような。というか、拷問容認にぶちきれるFBI捜査官デンゼル・ワシントンを「24」のキーファー・サザーランド(拷問。)と比べるとすごいギャップ。)



というか、つまらなかったのは映画が"政治的に正しすぎ"だからじゃなくて、映画そのものせいか。てか、似たようなシーンばっかなんだもん。戦場のシーンも、気色悪いプロパガンダのシーンも、「英雄」たちがなんだかなーって思ってるシーンも、みんな似たようなのが繰り返されるだけ。


イーストウッドの視点はすばらしいし、映画のテーマも完璧なんだけど(だから"政治的に正しい")、結局のところ視点とテーマだけでその他はなんだかパッとしなかったような。つか、その視点とテーマも、アメリカ人にとっては"政治的に正しい"けど、日本人にとっては「いまさら」っぽいし。



って、この映画を貶めすぎでしょうか。まあ、いい話は他の方々がいろいろ書いてくれてると思うんで、あえて、ということで。




というか、「なんのために戦うのか」というテーマ&答え的には「ブラックホーク・ダウン」と同じなんだけど(「no one left behind」問題も)、僕的には「ブラックホーク・ダウン」の方が好き。

大真面目で"政治的に正しい"「父親たちの星条旗」に比べると、「ブラックホーク・ダウン」は少々エンターテイメント風味があって、微妙に"政治的に正しくない"ところもあるのだけど、映画的にはよくできてるし、観てるこっちもいろいろ悩ましかったりした。というか、リドリー・スコットがけっこう好き。


まあでも、リアルタイムでガンガン戦争やってるアメリカでこの武骨な作品をつくったイーストウッドはすばらしい。





ところで次の「硫黄島からの手紙」だけど、どうでしょう。

「父親たちの星条旗」は"政治的に正しい"視点とテーマだったけど、それはあくまで「自国」の戦争についてであって、イーストウッドが「アメリカの息子として」自省的に、そして徹底的にクリティカルに描こうとしたからああなったんであって、「他国」の戦争についてはまた違った視点になりそうな予感。

全然クリティカルじゃなくて、日本に遠慮したかんじになっちゃうのではと。


結果、「父親たちの星条旗」はアメリカの「右の愛国者」に嫌がられる作品だけど、「硫黄島からの手紙」は日本の「右の愛国者」に喜ばれる作品になっちゃってるのではと。



ようするに、石原慎太郎さんの名前で売り出してる特攻隊映画みたいになっちゃうんじゃないかと(別に悪いとは言いませんけど。というか観てないし)。「暴露」じゃなくて「隠蔽」になっちゃうんじゃないかと。というか、「俺は、君のためにこそ死ににいく」って、「父親たちの星条旗」と真逆。



まあ実際、兵士たちの心の中なんてわからんし(本人たちにもわからないかもしれないし)、人それぞれだろうから(一人の中にもいろいろあってそれぞれが矛盾してる、なんて当たり前だろうし)、「国家のため」にしろ「郷土のため」にしろ「正義のため」にしろ「自由のため」にしろ「平和のため」にしろ「家族のため」にしろ「愛する人のため」にしろ「戦友のため」にしろ「仲間のため」にしろ・・・・・・・なんにしろ、勝手に一般化しちゃって安易に「答え」を出すのは個人的にはどうかと思うけど。(「<至上の価値>と<愛国の源泉>」「ねじ曲げられた桜」)




話飛んだけど、ようするに、イーストウッドは、日本人たちの戦争についてはクリティカルに描かないのではと。「硫黄島からの手紙」の主目的は、日本人たちはモンスターではないってことを描くことにあるのではと。アメリカ人に向けてのメッセージとしては"政治的に正しい"描写。



で、実際に、(日本での)映画の宣伝にはこういう表現が使われてる。↓


5日で終わるとされた戦いを、36日間、戦い抜いた男たち。世界中の誰よりも、強く、愛しく、誇らしく――私たちはいま、彼らと出会う。

(略)栗林のもと、一日でも長く祖国を守り抜こうと、死よりも辛い”出血持久戦”を戦い抜いた男たち――。彼らこそ、クリント・イーストウッドがどうしても描かなければならないと思った、日本の男たちだ。「私は、日本だけでなく世界中の人々に彼らがどんな人間であったかをぜひ知ってほしいのです」(略)

公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/




こういう映画をアメリカ人をはじめ旧連合国の人たちが観るのはとてもいいことだとは思う。「敵」であり「悪」である日本人にも愛情をいっぱい注いである作品に触れるのはとても大切。



が、そんな映画をいまさら観せられても「日本人としては」なんだかなーな予感。

ようするに、旧連合国の人たちにとっては"政治的に正しい"映画になってるのだろうけど、日本人にとってはそうじゃないのではと。旧連合国の人たちにとっては「国家と戦争のカラクリの暴露」になってたとしても、日本人にとってはそうじゃない作品になってるのではと。


アメリカ人にとっては「暴露」の機能を果たすものになったとしても、日本人にとっては「隠蔽」の機能を果たすものになってしまうのではと。



アメリカ人たちにとって「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が「暴露」であるように、日本人たちにとって「硫黄島からの手紙」が「暴露」になってたらそれはすごいと思う(いまさら暴露するものがあるかどうかわからんけど)。

「硫黄島からの手紙」がアメリカ人にとって"政治的に正しい"だけじゃなくて、日本人にとっても"政治的に正しい"作品になってるかどうか。


ようするに、安倍晋三さんが嫌がるような"政治的に正しい"作品になってるかどうか。安倍晋三さん周辺の人間が嫌がるような「暴露」になってるのかどうか。それとも、喜ぶような「隠蔽」の機能を果たしてしまうのか。



アメリカ合衆国については、アメリカの息子として「国家への冷徹な眼差し」で描写できたけど、戦争相手である日本国についてはどうか。


とはいっても、「硫黄島」で「国家と戦争と兵士のカラクリ」について「いまさら暴露」されちゃうものなんて日本国にはそもそもないか。「no one left bihind」とかそういう次元じゃなくて、最前線に取り残されて、おまけに「生きて虜囚の辱を受けず」状態だったのがバレバレだし。「隠蔽」はムリ?「玉砕」を描けば自然と「暴露」になる?ってそんなに甘くない?



ついでに、映画的につまらなくないかどうかはまた別の話。





ちなみに、宣伝コピーの「アメリカから見た硫黄島」「日本から見た硫黄島」ってのもわかりやすいんだけど、どうかと思う。

「硫黄島からの手紙」はふつーに素直に「日本から見た硫黄島」ってかんじになってるのだろうけど(ほんとうは「日本兵たちに対して優しい眼差しを持ったイーストウッドから見た硫黄島」だけど)、「父親からの星条旗」は「アメリカから見た硫黄島」というより「アメリカという国家とその戦争への冷徹な眼差しを持ったイーストウッドから見た硫黄島」というかんじ。この非対称性は意識されるべきかと。

「硫黄島からの手紙」も「日本国という国家とその戦争への冷徹な眼差しを持ったイーストウッドから見た硫黄島」になってたらまた話は違ってくるけど。






ごちゃごちゃいろいろ書いたけど難しい話で、同じようなことを表現変えて何度も書いてるだけで、思うことをわかりやすく表現できない自分にイラつくのだけど、こういう問題?ってあちこちにあると思う。たとえば、


●やたらとエスノセントリックでオリエンタリスティックな欧米人がいたとする。

●その人に対して、もうすこし視野を広げて他者に寛容になってくれよと少々文化相対主義的な議論をしてアジア等の非欧米社会の制度やら慣習について愛情を持って説明したとする。

●そしたら、非欧米の権威主義的体制の支配者たちがその議論を利用して「ほらみろ!そのとおり!」とかなんとか言って、自分たちの人権抑圧を正当化してしまったり。




「硫黄島からの手紙」の文脈にすると、


●「日本兵は極悪モンスター」的な概念を持った旧連合国の人がいたとする。

●その人に対して、いや愛すべき日本兵たちがたくさんいたから、と示す。

●そしたら、大日本帝国の戦争行為を正当化どころか称賛するような人たちがそれを利用して、「大日本帝国の戦争行為への誇り」と「悲惨な思いをした日本兵たちへの共感や愛情」を意図的にごっちゃにさせ、「カラクリを隠蔽」しようとしたり。おまけに、安倍晋三さんが「美しい国へ 2」で自分に都合の良い文脈でこの映画を利用して、「国家への忠誠と祖国への犠牲の美しさ」について語っちゃったり(さすがに露骨に本音で語るのは苦しいだろうけど)。




自国の所業への厳しい態度と他国の人々への優しい眼差しを持った言説が、自国の所業への厳しい態度を「自虐」と侮蔑し、他国の人々への優しい眼差しを「売国」と罵倒する人々によって利用されちゃう、みたいな。





いや、「硫黄島からの手紙」を観てないくせしてなんだけど。



こういう構図って、別に政治的な話だけじゃなくて、日常的によくあることだけど。自分に厳しく他人に優しい態度が、自分に甘く他人に厳しい人に利用されちゃったりすることはよくあること。




宣伝コピーや予告編は「釣り」で、↑でごちゃごちゃ書いたことを裏切ってほしいけどどうでしょう。




ちなみに、"政治的に正しい"って表現をしつこく使ったけど、これはある意味リベラルを揶揄するかんじの表現。リベラル的正しさへのちょっとした反発というか、リベラル的正しさの抑圧性みたいなものへの違和感みたいな。右からのリベラル批判(ムキになってのバックラッシュ)ではなく、左からの、ポストモダン的な視座からのリベラル揶揄的なかんじかと。





あと、石原慎太郎さんについて↑で微妙に批判的に触れたけど、この人はこういうことも産経新聞で書いてる。


八月が過ぎて靖国問題は旬が過ぎ沈静したかに見えるが、靖国が国際問題として蒸し返されるようになった切っ掛けのA級戦犯の合祀(ごうし)に関して、率直にいって私には納得しかねる点がある。というより私はA級戦犯の合祀には異議がある。
 
合祀の是非が論じられる時必ず、彼等を裁いた極東軍事法廷なるものの正当性が云々されるが、我々はそれにかまけて最も大切な問題を糊塗してしまったのではなかろうか。それはあの国際裁判とは別に、この国にあの多くの犠牲をもたらした戦争遂行の責任を、一体誰と誰が問われるべきなのかということが、棚上げされてしまったとしかいいようない。
 
私は毎年何度か靖国に参拝しているがその度、念頭から私なりに何人か、のあの戦争の明らかな責任者を外して合掌している。それはそうだろう、靖国が日本の興亡のために身を挺して努め戦って亡くなった功ある犠牲者を祭り鎮魂するための場であるなら、彼等を無下に死に追いやった科を受けるべき人間が鎮魂の対象とされるのは面妖な話である。死者の丁寧な鎮魂を民族の美風とするにしても、罪を問われるべき者たちの鎮魂は家族たちの仕事であって公に行われるべきものでありはしまい。

太平洋戦争に限っていえば、あの戦場における犠牲者の過半は餓死したという。そうした、兵站(へいたん)という戦争の原理を無視した戦を遂行した責任者の罪を一体誰が裁くべきなのか。それは国民自身に他なるまい。(以下略)

http://mudaimudai.exblog.jp/843606/








再出発日記さんがこんなこと書いてた。↓



日本国の総理大臣、安倍晋三氏が『美しい国へ』という本の中で、イーストウッド監督の前作『ミリオンダラーベイビー』を数ページに渡って賞賛している。

第三章『ナショナリズムとは何か』という章の中で、『「ミリオンダラーベイビー」が訴える帰属の意味』という小見出しをたてたあとの7~8ページだ。

ここで安倍氏は玄人っぽい映画評を展開する。『モ・クシュラ』というキーワードを説明しながらマギーとフランクの間には『アイルランドの帰属意識』が存在するというのだ。それは確かにそうだ。しかしクリント監督はそこから人間としての尊厳に話を展開するのだが、安倍氏の思ったことは違うようだ。

評論家松本健一の言葉を借りてこのように言って見せる。「中国人も韓国人もヒスパニックも、アメリカをすでに『理想の国』であると考えて移民したが、アイルランド系移民だけはアメリカを『理想の国』に作り上げようとした。」そしてさらに安倍氏は『地球市民』信用できない、といい、帰属意識を持つのは日本人なら日本しかありえないと展開し、「若者たちが自分の生まれ育った国を自然と愛する気持ちを持つようになるためには、教育の現場や地域で、まずは郷土愛をはぐくむこと必要だ。国に対する帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか。」と明らかに教育基本法の改悪の条文を意識しながら言う。そうやって『わが国の郷土を愛すること』が『愛国心』に繋がると、無理やりに展開するのだ。

おいおい、クリント・イーストウッド監督はそんなことを言いたいのではないよ。勘弁してほしい。この名作を汚さないでほしい。監督の気持ちは安倍首相の気持ちと正反対のところにある。その証拠にこの映画を見てほしい。

ここには、ネイティヴアメリカンを利用するだけ利用してぼろきれのように捨て、彼のアイデンティティをずたずたにしていく『国家』の姿が描かれている。アイラたちは白人社会の中で自分たちの民族の地位の向上のために、進んで従軍していく。しかしアイラは結局その国家に振り回され、おそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかり、野垂れ死にする。表面的な英雄扱いと、『このインディアンめが』と悪態をつけられる立場の矛盾。人間としての尊厳を築こうとしても、それを壊すのは『愛国心』を押し付ける『国家』であったのだ。


『父親たちの星条旗』と教育基本法
http://plaza.rakuten.co.jp/KUMA050422/diary/200611070000/

by mudaidesu | 2006-11-27 17:28 | 映画


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