自由からの逃走
自由からの逃走
エーリッヒ・フロム


『本能によって決定される行動が、ある程度までなくなるとき、すなわち、自然への適応がその強制的な性格を失うとき、また行動様式がもはや遺伝的なメカニズムによって固定されなくなるとき、人間存在ははじまる。いいかえれば、「人間存在と自由とは、その発端から離すことはできない。ここでいう自由とは「・・・への自由」という積極的な意味ではなく、「・・・からの自由」という消極的な意味のものである。すなわち、行為が本能的に決定されることからの自由である。






人間はどんな動物より長いあいだ、両親に依存している。 人間の生物学的弱さが、人間文化の条件である。

人間はその存在のはじめから、さまざまの行動方針の選択に直面する。====自由

神や教会の命令にそむく===選択のはじまり===自由のはじまり

『自由な行為としての反逆は理性のはじまりである。』


中世ーー個人の自由はない。しかし、個人は孤立してはいなかった。社会的秩序の中で役割を果たせば、安定感と帰属感を与えられた。そこには競争は存在しなかった。

ルネッサンスーー(ブルジョアの自由)
新しい自由は、かれらに二つのことをもたらしたように思われる。力の増大した感情と、それと同時に孤独と疑惑と懐疑主義との増大、===敵意の満ちた世界、そして、その結果として、不安の感情の増大である。


ルッターにみられるような、確実性への強烈な追求は、純粋な信仰の表現ではなく、たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。

ルッターにとって、(確実性=)この力とは神であり、かれは絶対的な服従のうちに確実性を求めたのである。

ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅却とを要求した。

ルッター===ファシズム的。


個人にその不安ととりくむ道を教えた。すなわち自己の無力さと人間性の罪悪性を徹底的に承認し、かれの全生涯をその罪業の償いと考え、極度の自己卑下とたえまない努力とによって、その疑いと不安とを克服することができると教えた。

プロテスタンティズムは、おびやかされ、くがえされ、孤独につき落とされた人間が、みずからを新しい世界へと方向づけ、新しい世界と関係を結ばなければならないと望んだ欲求にたいする解答だった。

性質ーー仕事への衝動、禁欲主義、義務の強制的意識===資本主義的ーーウェーバー


資本主義は人間を伝統的な束縛から解放したばかりでなく、自由を増大させ、能動的批判的な責任を持った自我を成長させた。と同時に、個人をますます孤独孤立、無意味と無力の感情をあたえた。

利己主義==自己に対する不安。。。自愛が欠けている。

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権威主義
自由からの逃避の最初のメカニズムは、人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を獲得するために、かれの外側のなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向がある。

マゾヒズム
個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、自由からの重荷からのがれること。
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by mudaidesu | 2005-09-04 23:57 |


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