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家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平
家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平
上野千鶴子 1990

これ、おもしろすぎ。いや~、フェミニズムって容赦しないですね~。キレキレですね。
ばったばったと切りまくり。解体しまくり、暴露しまくり。
おっさんたちがビビるのがよくわかる。たしかに脅威だ。

「ナショナリズムとジェンダー」とともに名著。



解放の思想は解放の理論を必要とする。誰が、何から、いかに、解放されたいのかを知らなければ、現状に対する不満や怒りのエネルギーは、方向を見失う。

女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論・・・3つ

1社会主義婦人解放論
2ラディカル・フェミニズム
3マルクス主義フェミニズム





女性解放の理論が、マルクス主義の射程から抜け出ていないのは、マルクス主義だけが、ほとんど唯一の、(近代)産業社会についての抑圧の解明とそれからの解放の理論だったから伝統的な社会主義婦人解放論は、差別と抑圧の解明に、階級支配という変数を持ってきた。それによれば、女性の抑圧は階級支配の従属変数であり、したがって階級支配の今日的な形態である資本制に反対する闘いが、女性解放のための闘いであり、プロレタリアの男性と女性とは、共闘しうるはずであった。階級支配が廃絶されれば、女性は自動的に解放されるはずであった。

だが、女性にとっては「近代市民革命」もそれにひきつづく「社会主義革命」も「自由」と「平等」を約束されながら「裏切られた革命」に終わった。市民革命は「ブルジョアの解放」を、社会主義革命は「プロレタリアの解放」を約束したが、革命のあとに達成されたのは、女性のエネルギーを利用しながら、それぞれ「ブルジョアの男の解放」と「プロレタリアの男の解放」にほかならなかった。女性や「身分」や「階級」という変数のほかに、自分たちを男から分かつ「性」という独立の変数に行き当たり、その理論化の必要に迫られた。

長い間女性運動を支配した社会主義婦人解放論に、最初の反措定をつきつけたのはウィメンズ・リブこと、ラディカル・フェミニズムである。

ウィメンズ・リブの初期のにない手が、共通して、60年代末に全世界を同時代的に席捲したステューデント・パワーの落とし子だった「裏切られた女社会主義者」であった、

新左翼の運動の中にある性差別に対する批判や告発を

ラディカル・フェミニズムが主として依拠したのはフロイト理論である。

フロイト理論は、事実上、マルクス主義と並ぶ、近代社会の抑圧の構造を解明するためのもう一つの社会理論だった。

フロイトの心理学説は、人がいかに父と母、息子と娘になっていくかについての物語、つまり、「家族」という制度の再生産のメカニズムについての理論だった。この「家族」という制度は、性と世代の間に抑圧的な差別の構造を組みこんだ「家父長制 patriarchy」と呼ばれる歴史的形態を持っていた。

ラディカル・フェミニストたちが、フロイティズムに訴えることによってなしとげようとしたのは、マルクス主義の解明が及ばない「家族」という再生産の領域の存在と、その抑圧の構造の解明だった。

フロイト理論はこの「家族」という市場の外にあるもう一つの「社会制度」を再生産するメカニズムについての、立派な「社会理論」だった。

階級支配の理論・・・マルクス 性支配の理論・・・フロイト

近代批判として登場した対抗文化運動は「市場」の外側にあるものを次々に明らかにすることで「市場」の行き詰まりを告発していった。

彼らが「市場」の外部に発見した二つの領域とは「自然」と「家族」であった。


女たちは、「家族」という「市場」の外部を支えるコストが、もっぱら女たちの肩にのみかかっている重圧に対して、悲鳴をあげ、抗議したのである。


社会主義婦人開放論は女性解放を社会主義革命に還元し、ラディカル・フェミニズムは性革命を最重要視する。それぞれの背後には、階級支配一元説と性支配一元説とが存在する。近代社会における階級支配の歴史的に固有なあり方を、マルクス主義は「資本制」と名づける。同じくフェミニストはブルジョア単婚家族における性支配の歴史的に固有なあらわれ方を、「(近代)家父長制」と名づける。

マルクス主義フェミニズムは、階級支配一元説も性支配一元説もとらない。両者は相互に排他的な、二者択一のものでもない。マルクス主義に対する批判を通過したフェミニズムは、行きすぎた性支配一元説を反省して、むしろ社会領域の「市場」と「家族」へのこの分割それ自体を問題視する。そしてこの分割から出発してその間の相互依存関係を問おうとする。マルクス主義フェミニストがとりあえず採用する立場は,階級支配と性支配とをそれぞれ独立変数と見なして、相互の関係の固有に歴史的な形態を解明しようとすることである。この立場からは、近代社会に固有の抑圧の形態は「家父長制的資本制」と呼ばれる。

フェミニストの視点からマルクスの原典という聖域を侵犯し、その改訂を辞さない一群のチャレンジングな人びとだけを、私はマルクス主義フェミニストと呼ぶ。


なぜ女性が、必然的に「二流市民」になってしまうかという「抑圧の構造」を分析する理論装置を、ブルジョア女性解放思想は持たない。


フェミニスト啓蒙主義者にとって、問題になるのは人々のおくれた意識だけである。「おくれた意識」を変えるのは、啓蒙の力である。啓蒙と教育によっても変わらない頑迷固陋な人々に対しては、パワー・ポリティックスしかない・・・つまり運動の力で政治の場において彼らを少数派に転落させることである。

フェミニスト啓蒙主義者の陥っているワナは、「男女平等」というこの「単純な真理」に、なぜこの社会が到達しないか、について構造的な分析を欠いていることにある。

理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがち


フェミニストのマルクス主義に対する批判は・・・「家族は階級分析の外にある。」

市場に登場する人々だけが「市民 citizen」だとしたら、女・子供・老人は「市民」ではない。


不思議なことに、マルクスはには、男と女の性分業は、男と女の身体的差異にもとづく「自然」な分業と見なされている。マルクスは階級の間の対立や、「精神労働」と「肉体労働」の間の「分業」を、「自然」なものと見なさなかったが、性分業は、これを「自然」なものと見なし不問に付している。

フェミニストがマルクス主義について指摘したのは、この限界-性と生殖、したがって家族を「自然過程」と見なしたことによって、家族がマルクス理論の分析の射程に入ってこないという限界-だった。

しかし、マルクス理論の限界は、マルクス自信の限界であるというよりも、市場の限界の反映だった。家族を市場の外に置いたのは、マルクス主義ではなく、市場そのもののほうだったからである。マルクス主義は、ただ市場の理論として、市場とともにこの限界を共有したにすぎない。


市場が<外部>を否認する全域性を持っていると仮定するのも誤りだが、市場が<外部>から、あるいは<外部>が市場から、それぞれ独立した閉鎖系だと考えるのもまちがっている。市場とその<外部>との関係は、相互依存的なものである。

マルクスが見落としたこの市場の<外部>に、フェミニストは、家族というもう一つの社会領域を発見した。家族は、市場に対して労働力の再生産という機能を担っていた。家族は労働力市場に人間という資源をインプットし、アウトプットする端末だったのである。

人は単なる個人ではなく、夫/妻、父/母、親/子、息子/娘、になる。この役割は、規範と権威を性と世代とによって不均等に配分した権力関係であり、フェミニストはこれを「家父長制」と呼ぶ。

この単婚小家族内の家父長制的な性支配のメカニズムを、フロイトはエディプス・コンプレックスと呼んだ。


マルクス主義フェミニズムがマルクス主義的である理由は、家父長制がたんに心理的な支配や抑圧ではなく、それに物質的根拠material basisがあると考える「唯物論的分析」による。したがって、性支配が、たんにイデオロギーや心理でなく―それゆえ女が被害妄想を捨てたり男が気持ちを入れ換えれば解決するような心理的な問題ではなく―はっきりとした物質的=社会・経済的な支配であり、したがってこの抑圧を廃棄するには、この物質基盤を変革する以外に解放がなことは明らかである。

マルクス主義フェミニズムが、マルクス主義を開放の理論としてまだ有効だと考える理由は、「マルクス主義とフェミニズムは、権力とその分配、すなわち不平等についての理論」だから

逆説的なことに、マルクス主義フェミニズムは、マルクス主義に忠誠を誓うことによってではなく、性支配の分析にとってマルクス主義に限界があることを認めるところから出発する。




マルクス主義フェミニズムの最大の理論的貢献は、「家事労働」という概念の発見である。「家事労働」は「市場」と「家族」の相互依存関係をつなぐミッシング・リンクであった。

家事労働とは、近代が生み出したものであり、超歴史的な概念ではない。マルクス主義フェミニズムは、家事労働の歴史性を問うことで、近代社会に固有の女性の抑圧のあり方を明らかにすることに成功した。

資本制下の市場は、人間の労働のすべてを、市場の内部にとりこんだわけではなかった。

家事労働、市場によって商品化されなかった労働の一つである。


市場労働と非市場労働の間の境界ーーすなわち「市場」の限界ーーは、市場が「何をどこまで市場化するか」によって変動する。戦後の家電製品の普及、食品、衣料産業の隆盛、家事サーヴィスの商品化等は、家事労働のうちの大きな部分を市場化=商品化した。「家事労働」の内容は、質・量ともに歴史的に変化する。


「家事労働」という概念の発見は、人々の認識に大きな視座の転換を生じた。「家事=労働」という「概念」の成立は、人々に「家事労働も労働だ」という認識をもたらした。

これまで主婦がだまって当然やってきた仕事が、不当に圧しつけられたものだという認識をもたらすことによって、女性は、この認識の以前には持たなかった「剥奪」感を持つようになった。

この「剥奪」の認識を通じて「女性=被抑圧階級」としての「女性階級」意識の形成がなされるのである。

それを「労働」と呼んだとたん、その活動は「労働」以外のものでなくなる。汗と困苦のイメージに汚染され、<目的―手段>系列の功利主義原則に冒され、あまつさえ経済価値に換算されようとするこの「活動」を、無償性と献身の名において「神聖さ」へと救い出そうとする試みが、「家事労働」論にはいつでもつきまとう。とりわけ「家事労働」の経済的価値という議論に対しては、いつも女性自身の側から「愛」の名による反発が出てくる。

「愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与えて祭り上げることを通じて、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置であることは、フェミニストによる「母性イデオロギー」批判の中で次々に明らかにされてきた。「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福と見なして献身と自己犠牲を女性に慫慂することを通じて女性が自分自身に対してより控えめな要求しかしないようにするための、イデオロギー装置であった。女性が「愛」に高い価値を置く限り、女性の労働は「家族の理解」や「夫のねぎらい」によって容易に報われる。女性は「愛」を供給する専門家なのであり、この関係は一方的なものである。女の領分とされる「配慮」や「世話」が「愛という名の労働」に他ならない・・


この「家庭性」は、典型的には都市ブルジョアジーの階層に出現したから、「主婦」になることは、多くの女性にとって階層上昇を意味した。男にとっても、家事使用人のいる家庭に家事労働をしない妻を置いておくことは、彼の属するステイタスシンボルとなった。


下女や女中→主婦

歴史的な順序から言えば、「家事労働」を行うのが「主婦」というより、「主婦」があとになって「家事労働」を行うようになったというべきなのである。

「家事労働」を行うのが「主婦」であり、逆に「主婦が行う労働」が「家事労働」である、という定義はだから歴史的には新しい。「主婦労働」が「家事労働」と同義になるには、「主婦」の座が特権性を失って、大衆化するという契機が必要である。


「奥さん」はもちろん、武家の「奥方」から来ている。

「奥さん」とは、もうたんなる「家事労働者」以上のものではなくなった。



家事労働を「労働」と認めるためには、家族という神聖不可侵の「ブラックボックス」を無理矢理明るみに引き出し、「愛の共同体」の神話をうち破ってその中にある不平等を示さなければならない。


家事労働論争のもう一つの重要な貢献は、マルクス主義概念の拡張適用というまさにその試みをつうじて、マルクス主義の限界を明らかにしたことである。

マルクス主義フェミニストによるマルクス主義の限界の指摘は、第一にマルクス主義をどう変更すればその拡張が可能か、第二にマルクス主義にどのような概念をつけ加えればこの限界を補うことができるか、についての理論的な探求へと導いた。



家父長制という概念を性支配の分析に最初に持ち込んだのは、ケイト・ミレットやジュリエット・ミッチェルのようなラディカル・フェミニストである。だが彼らは主として、家父長制の起源を心理的なものと見なした。

これに対して、マルクス主義フェミニストは、ラディカル・フェミニズムのインパクトを受けつぎながら、家父長制を物質的な基盤のある性支配の構造として定式化しようとする。

これこそが、・・・マルクス主義フェミニズムが唯物論的分析である理由である。

家父長制の物質的基盤とは、男性による女性の労働力の支配のことである。この支配は、女性が経済的に必要な生産資源に近づくのを排除することによって、また女性の性的機能を統制することによって維持される。

したがって家父長制の廃棄は、個々の男性が態度を改めたり、意識を変えたりすることによって到達されるようなものではない。それは現実の物質的基盤――制度と権力構造――を変更することによってしか達成されない。


「恋愛結婚」のイデオロギーは前近代的な拡大家族から、近代的な核家族への歴史的な転換期に、家父長制の近代的な形態を女性に自らすすんで選ばせるイデオロギー装置として働いた。



家族を支配――被支配を含む再生産関係と見なして分析対象とするむずかしさは、家族が分析にとって一種のブラックボックスであり、かつ歴史姦通的に「自然」なものと見なされてきたこにある。とりわけ近代産業社会が、家族を公的で競争的な社会からの避難所、慰めと平安を供給する最後の私的な砦と見なして「近代家族」を構築して以来、家族は打算や功利の入り込まない無私の共同体――その中では成員の誰もが苦楽を分かちあう、真に平等で超個人的な単位――と考えられてきた。

だから、フェミニストの分析がこの「聖域」に及んだ時、そしてこの見かけの「共同性」のもとに歴然とした抑圧と支配があることを暴露した時、多くの人々は、男も女も、自分たちの信じていた神話が壊れたことにうろたえて逆にフェミニズムを功利主義や経済主義の名のもとに攻撃するに至ったのである。

事実、「家族」というブラックボックスにフェミニストの分析が及んで、性と年齢による支配を明らかにした時、多くの人々はそれに拒絶的な反応を示した。彼らはフェミニストが資本制下に残された最後のわずかな共同体の聖域を解体して、バラバラの個人に還元するのではないかとおそれた。

だが、家族の中にははっきりとした男性支配や、あからさまな経済的搾取があることを指摘することが、どうしてそれ自体功利主義や経済主義になるだろうか。


家父長制とは、家族のうちで、年長の男性が権威を握っている制度を言う。ソコロフは、「家父長制」を定義して「長老男性による支配」と呼ぶ。



たしかに女性はいつの時代も生産者であったし、生産者であることをやめたことはなかった。女性が生産者であり、かつその労働制産物から疎外さた抑圧された生産者であるという定式は、たしかに「性階級支配」の物資基盤を説明する。


女性はいつの時代も生産者であったが、生産者だけであったこともなかった。女性あ生産者であるとともに、つねに再生産者でもあった。

すべてを物資生産の用語に還元する唯物論者は、そのことによって生産活動以外の領域を見失う。もちろんカワードもサックスも、女性の再生産活動には気付いている。ただし彼女らは、マルクス同様、生殖を「自然過程」と見なすことで、結局、生殖もまた労働――物質ではなく人間の生産という労働――であることを看過する。


だが、女性が「生産者」であるにもかかわらず、資本制生産様式のもとには置かれず家父長制のもとに入る――かつもし資本制のもとに参入した場合でさえ家父長制の重荷を引きずって「二流の生産者」になる――のは、女性が「再生産者」であるからこそではなかったか。



マルクス主義にとって労働にあたるものが、フェミニズムにとってはセクシャリティである。


家父長制を「女性の労働の男性による領有」と定義するよりは、むしろ「女性のセクシャリティの男性による領有」と定義する方が、フェミニズムの問題意識にかなっている。

女性は子宮という再生産手段をもっているが、子宮が肉体的に女性の身体に帰属していることは、それを女性が「所有」していることを少しも意味しない。家父長制のたくらみは、あげてこの子宮という再生産手段の支配というコントロールのためにあった。女性を自分自身の身体について無知なままに置き、その管理を男性にまかせ、避妊と生殖についての自己決定権を女性から奪うことば、再生産支配階級の意図であった。


前近代的な婚姻では、妻は嫡出子を挙げるための道具とみなされた(「胎は借りもの」)。こういう制度のもとでは、離婚は女にとって、子どもを婚家に置いて出ることを意味した。

戦後、この状況は大きく変わった。現在離婚に際して子の8割以上が母方に引きとられる。それは核家族化にともなって夫が妻に代わる女手(祖母)を失ったことと無関係ではない。離婚が子供を失うことと同義ではなくなったことが、女性に離婚の決断を容易にさせている事実は、あまり指摘されていない。


ハートマンによれは、「性支配の再生産」は「教会、学校、スポーツ・クラブ、組合、軍隊、工場、事務所、保健センター、メディア等、家父長的態度が教え込まれかつ女性の地位の低さが押し付けられ補強される家庭の外の場所」で行われる。こうして離別母子家庭で息子を育てるフェミニストの母親さえ、5歳児の息子から「女のくせに!」とやりこめられるという笑えないコメディが生じる。子供を性支配の汚染から隔離しようとする試みは、女や子供が家父長制的な社会にさらされている限り、個別の婚姻をキャンセルしてもムダなのである。

再生産はたんに受胎し、生産するまでの生物学的なプロセスを意味しない。産んだ子供を一人前に育て上げる全プロセスが再生産であり、その再生産労働を女性が担っている。このプロセスをつうじて、家父長制に適合的な次の世代を育て上げるために女性の自発的な献身を動員すること――ここに家父長制の成功がかかっている。

女は自分から生まれた生きものを、自分を侮蔑するべき育てるのである。




この家父長制的な女性の再生産労働の搾取から、女性が独立を求めて逃れたらどうなるか?離婚は現在、女性にとって高くつきすぎる「解放」になっている。それどころか多くのフェミニストは、女性の独立によって最初に「解放」されるのは、男性の方ではないかと危惧する。

多くの国家政策は、結婚から逃れる自由を、したがってその結果として親としての責任から逃れる自由をますます――男性に――保証している。

かつての離婚とちがって、今日の離婚では子供の親権はほどんどの場合母方に帰属する。だがこのことは「母の勝利」を少しも意味しない。かつての家父長制離婚では、妻はその再生産物=子供を夫のもとに置いてされなければならなかったが、その代わり子供の再生産費用は夫方が負担しなければならなかった(実際には、この再生産の現場費用を妻に代わって引き受けたのは夫の母親――ここでもやはり女――である。) しかもその時代には子供の社会化に時間がかからず、子供の経済価値が高かった。今日、男たちが子供に対する「親権」をかんたんにギブアップする「謎」を、ハートマンは、「男たちは(小さな)子供が経済価値を持っている間だけそれを手もとに引きとめ、子供が経済価値を失うと今度は女たちに押しつけた」と説明する。



もちろん、夫婦、親子という「愛の聖域」についてのこの種の唯物論的分析は、多くの人々にとって耐えがたいものにちがいない。しかし多くの社会で、今でも家族を維持する要因は、この性支配/世代間支配からくる物質的利益。




http://mudaimudai.exblog.jp/1038787/
へつづく






ザ・フェミニズム 上野千鶴子vs小倉千加子
by mudaidesu | 2005-09-15 00:43 |


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