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<フランシス・フクヤマ>論争 リベラル ネオコン フェミ

フランシス・フクヤマさんといえば、『歴史の終わり』ですね。1989年、『ナショナル・インタレスト』誌に載った「歴史の終わり?」という論文で一躍コントラバーシャルな論壇スターになりました。ちなみに、この『ナショナル・インタレスト』はネオコンの「創設者(?)」、アービング・クリストルさんの作った雑誌です。「国益」って雑誌名、かっこいいですね。

フクヤマさんは、リベラル・デモクラシーが「人類のイデオロギー上の進歩の終点」及び「人類の統治の最後の形」になるのかもしれないし、よって、リベラル・デモクラシーの勝利した今、「歴史は終わった」んですよ~、みたいなことを主張しました。(ちょっと書き直した)

このとき、フクヤマさんは、ランド研究所という共和党系のシンクタンクにいましたが、当時の、というかブッシュ政権前までは、共和党の外交政策はジェシー・ヘルムズ外交委員長に代表されるリアリスト路線が強かったので、フクヤマの議論は少し驚ろかれたようです。

共和党系の孤立主義的リアリスト(バランス・オブ・パワー系)は、クリントン政権のリベラル的外交(例:人権重視・人道的介入・国連重視など)を激しく批判してました。一方のフクヤマさんは、第三世界の「民主主義」とかについて、「歴史の終わり」と同じでヘーゲル的な歴史観(左翼・進歩的)に基づいてガンガン議論してました。ようするに、平和は「バランス・オブ・パワー」によってもたらされるのではなく、リベラル・デモクラシーが普及することによって、みたいなことを。いわゆる「デモクラティック・ピース」みたいな。というわけで、当時は、フクヤマさんの議論はリベラル国際関係理論の典型として教科書に載っていたようです。(ちょとと書き直した)

そんなフクヤマさんですが、今日ではすっかりネオコンさんと見られているようですね。クリントンへの、あの有名な「フセイン打倒しろや!」手紙にネオコンさんたちと共に署名した一人ですし。最近の議論をチェックしてないのでよくわからんですけど。まあ、↑の経緯を考えればうなずけますが。おまけに、彼はレオ・シュトラウスの弟子の弟子です。ちなみに、「歴史の終わり」の日本語への訳者がゴリゴリ保守の渡部昇一さんです。

ようするに、リベラル国際関係理論が、変異を起こしてネオコン理論になっちゃったみたいな。ネオコンってのはもともと左翼的な人が多い。↑のアービング・クリストルさんによると、自分(ネオコン)は、「liberal mugged by reality (リアリティにやられちゃったリベラル)」だと。(付け足した)



***とか書いたら、彼のブッシュ政権批判(?)見つけちゃいました。次のエントリーで。
ネオコンの懺悔!?ブッシュ批判!?by フランシス・フクヤマ


これ系の話で簡単に読めておもしろいのが↓

宮台真司 解題:ナタン・シャランスキー『民主主義論』


で、そんなフクヤマさんですが、なにげにこんな論争もしてます。

もし女性が世界政治を支配すれば・・・
Women and the Evolution of World Politics

フランシス・フクヤマ /ジョージ・メイソン大学政治学教授

「競合的な目的の一つをめぐって団結し、ヒエラルヒーにおける支配的な地位を求め、相互に攻撃的熱狂を示すという男性の傾向は、他の方向へと向かわせることはできても、決して消し去ることはできない」。

したがって、一般に男性よりも平和を好み、軍事的介入に否定的な女性たちが政治を司れば、世界の紛争は少なくなり、より協調的な秩序が誕生するかもしれない。人口動態からみても、すくなくとも民主的な先進諸国では今後政治の女性化が進んでいく可能性が高い。

だが、男性的で野蛮な無法国家の存在が今後当面はなくならないと考えられる以上、かりに男性政治家は必要でないとしても、依然男性的な政策は必要になるだろう。

「生物学は運命ではない」が、人が生物学的性格から自らを完全に切り放すのも不可能である。必要なのは、人間の本質がしばしば邪悪であることを素直に受け入れて、人間の粗野な本能を和らげるような政治、経済、社会的システムを構築することだ。

この点、社会主義や急進的なフェミニズムとは違い、「生物学的に組み込まれた本性を所与のものとみなし、それを制度、法律、規範をつうじて封じ込めようとする」民主主義と市場経済のシステムは有望である。二一世紀の世界政治が穏やかな秩序になるかどうかを占うキーワードは「女性」そして民主社会の多様性である。

フォーリン・アフェアーズ 、 『論座』 


フクヤマの愚かな議論
Fukuyama's Follies: So What if Women Ruled the World?


1.男だって戦争は好きじゃない
  Men Hate War Too
  バーバラ・エーレンリック (作家)

2.フクヤマの議論は前提から間違っている
  Perilous Positions
  ブライアン・ファーガソン (ラトガーズ大学人類学准教授)

「遺伝的に攻撃的な性質を持つ男性に代わって、より穏やかで争いを好まない性質を持つ女性が政治に参加し、その比重が増していけば、国際関係はより平和になる」。フランシス・フクヤマは、論文「もし女性が世界政治を支配すれば」でこう主張した。

フクヤマは、男性(オス)の攻撃性は遺伝子に組み込まれているとし、その例として、オランダやタンザニアで見られたオスチンパンジー同士の残虐な闘いや、数万年前からあったとみられる男性による大量虐殺を挙げる。しかも、環境や文化をつうじて、遺伝子に刻まれた男性の攻撃的な性格を克服する試みには限界があると主張した。

人類学、そして広く社会科学全般が、性、民族、人種の普遍性を基盤に、思想や理論を組み立ててきただけに、フクヤマの指摘は大きな波紋をよんだ。以下は、文化や環境から人間が受ける影響、フェミニズム、そして人類学の立場からのフクヤマ論文に対する重厚な反論

フォーリン・アフェアーズ


これ以外にも、あっちこっちでぶった切られてたそうな。

朝日新聞の船橋洋一さんによる、この論争の簡単な紹介↓。

「女の平和」を提唱するフランシス・フクヤマが浴びた集中砲火  

男性のほうが女性より攻撃的で、権力と地位への欲望が強い。こうしたムキムキマンが社会を牛耳っていることが戦争を生みやすくしている。世界を平和にするには、まずは人間(男性)の獣性をありのまま認めることだ。そして、非攻撃的な女性の抑止力をもっともっと使わなければならない。女性の政治参加を促し、女性に指導的な立場に立ってもらうことだ。





『歴史の終わり』の著者、フランシス・フクヤマは、「フォーリン・アフェアーズ」誌の論文「もし女性が世界政治を支配すれば」(邦訳は「論座」一九九八年十一月号)でこのように二十一世紀の「女の平和」ビジョンを描いた。

これに対しフェミニストの理論家たちが、これは「歴史の終わり」ではない、「前史の復活」だ、と集中砲火を浴びせている。

フクヤマが人間の男の攻撃性を証明するのにチンパンジーのオスの攻撃性を用いたことが「前史」うんぬんの背景にはある。

人類学者、リチャード・ランガムと科学ジャーナリスト、デイル・ピーターソンがアフリカのチンパンジー集落で行った現地調査を基に記した『オスという悪魔(Demonic Males)』では、オス社会は派閥をつくり、権力闘争を繰り返し、ありとあらゆる手を使って“政敵”を物理的に抹殺し、政敵の集団に属するメスをレイプし、殺し、恭順の意を表したものはセックス・パートナーとする行動様式が事細かに記されている。それに対して、ボノボという名の小さいチンパンジーではオスが攻撃的な動きに出ようとするとメスたちが連帯し、それを阻む。その手段は往々にしてセックスである。

「セックスは子供をつくるためだけに用いられるのではなく、緊張した状況を和らげる際や、ケンカの後の仲直りのときにも使われる。こうして社会は平和が保たれる」と彼らは指摘し、「将来の人間の調和は、女性の力の増大によって生まれる」と結論づけた。フクヤマはこれを丸ごと援用したわけだ。

同じ「フォーリン・アフェアーズ」誌(九九年一・二月号)に載った反論を読むと、批判は多岐にわたっている。

まず、男性が女性より攻撃的である、との命題そのものからしてあやしい。戦争は必ずしも男だけの生業だったわけではない。女性の戦士は歴史上、多々見られる現象である。女性もまた集団的な攻撃能力を十分に発揮してきた。「十七、十八世紀には、女性は軍事行動ではない分野でのパンよこせ蜂起とか革命闘争ではすさまじい暴力性を発揮した。第二次大戦でソ連は空軍パイロットや地上戦闘に女性を参加させた。民族解放運動ではテロリストやゲリラ戦士となるのが普通となった」

フェミニストの論客として名の知れているカーサ・ポリット(「ネイション」誌副編集長)も、この点はほぼ同意見だ。

女性の攻撃性も相当なものであり、「女性の政治力が高まれば平和も広まる」と必ずしも言えないほど「相当」である。「歴史的にどの社会でも戦争や虐殺には女性も全面的に参加している。女性たちは魔女狩りの際、それを忌避しただろうか」。

組織での地位をめぐる闘争はなにも男性に限ったことではない。着物、カネ、ボーイフレンド、人気、セックスアピール、派閥、「シスター関係」(sororities)で激烈な競争を繰り広げている。「フクヤマは高校に行かなかったの?」と痛烈である。

フクヤマの間違いは「戦争とは何乗にもなった個人の暴力の集積である」とする考えである。「ドイツのポーランド侵略はカッカしたドイツの若者が、ポーランドをやっちまおうと興奮して、決めたのではない」「戦争がそれほど男性の遺伝子を興奮させるものであるとしたら、なぜ国家は徴兵制度を導入しなければならないのか」。

女性が政治に参加すれば、それで社会がそれほど変わるかどうかも疑問だ。「米国の女性は婦人参政権を得てから八十年たつが、有給の産休もまだ認められていない」。「最近のボスニア、ルワンダ、リベリア、シエラレオネ、グルジア、アフガニスタンの虐殺を見るにつけ、チンパンジーのことを思い出してしまう」というフクヤマのチンパンジーへのこだわりも批判の対象だ。たしかにチンパンジーは、人間と十万もの遺伝子を共有、異なるのはわずか五十しかない。人間とは親類づきあい以上の存在ではある。

ただ、ブライアン・ファーガソン・ラトガーズ大学助教授(人類学)は、『オスという悪魔』の研究対象となったチンパンジー集団は人間がバナナを与えるなど生態系が変化し、ストレス過多の環境下での行動様式だったことを見逃している、と指摘する。また、ボノボの中にはチンパンジーより、より人間に近い種類がいるが、彼らには集団的暴力への傾斜は見られない、と言う。

フクヤマはリベラルな装いをしているが、結局は男性優位の保守主義者、との批判もある。

「西欧民主主義国では政治の女性化が進むだろうが、開発途上国では今後とも男性優位の政治が支配するだろう。したがって、西欧がそれに対抗するには男性そのものではなくとも男性的な政策が必要だ」とフクヤマは主張する。ほら見たことか、馬脚を現した、との声が聞こえるようだ。

フクヤマの論旨に共感を覚える人々も(男女を問わず)けっして少なくはないはずだ。『オスという悪魔』は夫の“オス性”にほとほと愛想を尽かした(であろう)ヒラリー・クリントンの愛読書だといわれる。政治も外交も男には任せておけない、と彼女が思ったとしても不思議ではない。

ただ、フクヤマ、いかんせん旗色が悪い。

男性ホルモンと女性ホルモンを悪玉、善玉と割り切りすぎたきらいがある。

博覧強記をマッチョしすぎた論文より、古代ギリシャのアリストファネスのように喜劇を書いたほうがよかったかな。

「女の平和」では、相次ぐ戦争にうんざりしたアテナイの女たちが政治の府、アクロポリスに立て篭もり「セックス・ストライキ」という奇策を弄して、男たちに戦いをやめさせようとする。スパルタの女たちもそれに参加し、結局、「女の平和」が生まれるという筋書きだった。

ボノボのメスがアメなら、ギリシャの女たちはムチで平和を勝ち取った。ムチだからといって攻撃的とは限らないのだ。「愛のムチ」という言葉もあるくらいだし。

船橋洋一の世界ブリーフィング 週刊朝日1999年1月22日号



「フクヤマはリベラルな装いをしているが、結局は男性優位の保守主義者、との批判もある。」ですが、↑で書いたように、当時はリベラル系かと世間では思われてましたからね。まだブッシュ政権登場前です。9.11以前です。ブッシュ陣営もリアリストぶってクリントンの外交政策を叩いてましたし。みんなネオコンなんてよく知らん時期です。

私自身は、このフォーリン・アフェアーズのフクヤマ論文は読んだんですが、反論その他はまだ読んでません。印象に残ったのは、「ただ、<女>が権力を持つだけじゃだめ。サッチャーは<男らしい女>だから首相になれた。それじゃ<男>とたいして変わらない。<女らしい女>が権力持たないと」みたいなところでした。「生物学的本性」がどうたらこうたら言うなら、サッチャーだって生物学的に<女>だから同じじゃん、とか素朴に思いました。

フクヤマさんは、アメリカ社会についての論文・著作がたくさんあります。いろいろ読んだんですが、理論とかよくわかってないときだったんで、どんな内容だったかすっかり忘れました。


*もう一度。 ネオコンの懺悔!?ブッシュ批判!by フランシス・フクヤマ




女 男政治家 小泉 男 女政治家 3 + フェミ
by mudaidesu | 2005-09-15 15:32 | 世界


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