Chupika Szpinak
2007-07-11T10:13:55+09:00
mudaidesu
タイトル変えた。
Excite Blog
とくらたかこさん応援エントリー
http://mudaimudai.exblog.jp/6069870/
2007-07-11T10:07:00+09:00
2007-07-11T10:13:55+09:00
2007-07-11T10:07:34+09:00
mudaidesu
ニッポン
おそくなりましたが、応援エントリーでも書いてトラバでもしようか、と思ったんですが、いまさらあえて書くこと思いつかないんですよねえ。何度も言ってますが、がんばってください、くらいしか出てこないです。というか、とくらさんと知り合ってもうすぐ二年ですね。はやっ。なんだかいろいろ懐かしいです。
とくらたかこさんホームページ
http://www.tokuratakako.jp/index.html
とくらたかこさんブログ
http://ttokura.exblog.jp/
超いいかげんですがとりあえずこれをトラバします。というか、こんな全然パブリックなかんじじゃないのを参議院選挙候補にトラバしちゃっていいんでしょうか(笑)。ま、気にせずに。
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キリスト教徒とイスラム教徒の戦争。
http://mudaimudai.exblog.jp/5105391/
2007-02-07T19:00:00+09:00
2007-02-07T20:21:32+09:00
2007-02-07T18:51:47+09:00
mudaidesu
映画
ryoddaさんおすすめの『キングダム・オブ・ヘブン』を去年の年末だけど観た。
すげーおもしろいじゃないですか。
最初は「なんだか地味な映画ですね」と思ったけど、途中から派手派手。わーい。
リドリー・スコット好きとか言っときながら、この映画だけはなぜかノーマークだった。この手の西洋中世ものにはあまりそそられないってのもあるけど。十字軍ネタだってのを知らなかったし。
ちょうど『世界の歴史 8 イスラーム世界の興隆』(中央公論)読んだ後だったんで興味深く観れた。ただ、この本に書いてあることと細かいところが違ってたんだけど、まあそれははいいや。
オーランド・ブルームは悪いとは言わないけど、カリスマ性がまったく発揮できてなくて微妙。最後まで普通のにーちゃんにしか見えなかった。というか、脇役がイケてるから、比較するとオーランド・ブルームは冴えない。
というか、仮面の王様のカリスマ性がすごかった。ちょっとしたしぐさとだるそうなしゃべりだけで、すさまじい雰囲気を出してた。誰だよ?仮面かぶったままだから無名の人?無名の人がそんなに凄まじいわけないか?すげーと思うのは俺の気のせいか?とか思ったけど、エドワード・ノートンだった。さすが、というか、すげっ。
サラディンとの直接交渉のシーンは、台詞は数個だけだけど、鳥肌モノだった。
それにしても、この映画もなんだか妙に政治的に正しいような気がする。正直、序盤から中盤にかけては、あまりに政治的に正しすぎで毒がない描写ばかりで、ちょっとうざかった。
それでも、アメリカ主流大作映画でこんな描写するなんて信じられない。
キリスト教軍の残虐性をたくさん描く。主人公たちに、エルサレム攻略時のムスリム皆殺しの話をさせたりして、その他いろいろ「反十字軍」的言葉を何度も言わせる。身内のキリスト教徒に十字軍のことを「ヨーロッパからやってくる狂信者たち」とか言わせたり。
反対に、イスラム教側の行いで「ひでー」って描写がない。映画の中でイスラム教軍が戦うときは、キリスト教軍側が協定を破って一般ムスリムたちを虐殺したときだけ。サラディンのエルサレム奪還戦も、キリスト教側が一般ムスリムを虐殺したことがきっかけと描く(実際はそんな単純じゃないでしょ)。
イスラム教軍がエルサレムを奪還した際も、キリスト教徒の安全を保証し、ムスリム皆殺しをした十字軍との違いを描く。サラディンもイケてる人物として描く。
まあ、歴史の本の通説に従って(細かい部分で↑の本とは違うところがあったけど)、今の感覚からして両軍のよさげなところを強調して描けばあんなかんじになってもそんなにおかしくはないのかもしれないけど。
それにしてもほんと世の中変わったのかなー。ryoddaさんは、リドリー・スコットは「政治的正しさ」を気にせず、エンタメに徹すると言ってたけど、『GIジェーん』なんかと比べるとえらい違いかと。
『GIジェーン』じゃ、リビアに落ちた衛星を回収するために違法に特殊部隊を潜入させて、リビア兵をぶち殺したりのしながら回収成功させて、みんなで「いえーい!やったぜ、わーい!」って次元だし。
それで、『キングダム・オブ・ヘブン』の特徴としては、個人の信仰を擁護するが、あくまでそれは個人や人々のためになればであって、個人や人々を不幸にさせることを正当化するような信仰は擁護しない。
宗教ナショナリズム的なものを否定し、代わりに世俗ナショナリズム的なものを擁護する。その世俗ナショナリズムもあくまで人が中心であって、土地や領土や街ではない。
いわゆる愛郷的なパトリオティズムみたいなものさえも、どうでもいい、という視点。それが、最後のエルサレムを追われながらも人々が助かるということだけに歓喜する(歴史の本では違うみたいだけど)シーンで表現されてるのだと思う。
ところで、サラディン役の俳優だけど、この人はオリバー・ストーンの『アレキサンダー』でダレイオス三世やってた人じゃない?と思った。あの映画じゃ、ダレイオス三世があっさり逃走するだけでみっともない役(あれはあれで味があったけど)だったけど(歴史の本でも実際、ダレイオス三世は使えない奴だった、とか書いてあったと思う)、サラディン役で活躍できてよかったね。そのうち、ホメイニとかビン・ラディンの役で出てきたり。
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ラストデイズとカラオケ
http://mudaimudai.exblog.jp/5105284/
2007-02-07T18:50:00+09:00
2007-02-07T20:21:07+09:00
2007-02-07T18:32:11+09:00
mudaidesu
映画
この映画は二度目なんだけど、やっぱ地味すぎなような。
ガス・ヴァン・サントもニルヴァーナも好きなのだけど、ほんと地味すぎないか?この映画。それだけ丁寧に誠実に、敬意を払って描いたということなのだろうけど。かっこよく仕上がってるのを期待してたんだけど。
僕の中で「ライブで凄かったギター、ナンバーワン」のサーストン・ムーアがこの映画の音楽に関わっているようなので、音楽にも期待していたのだけど、地味だった。
オリバー・ストーンあたりが作ったらどうだろ?と公開前にちょっと思ったけど、この人じゃエライの出来上がりそうで、なんか観る前から想像できちゃうから、やっぱオリバー・ストーンはやめといたほうがいいか。
で、カラオケだけど、普段カラオケなんて全然行かないのに、前にこの映画を観た後に行った。で、今回もまた行ってしまった。朝まで9時間くらい。アホ。カート・コバーン追悼ってことで、ニルヴァ―ナ連発。
で、何が切ないって、結局、基本的に歌いたい・流したい曲が90年代のばっか。なんかヤバイ。
てか、90年代には、80年代の音楽について熱く語る年上の人たちに、俺は2000年代になったら90年代の音楽ばかりじゃなく2000年代の音楽を語るよ、とか言ってたんだけど・・・ただの青いアホガキですな・・・
まあ、言い訳としては、2000年代は正直、音楽的に90年代から変化ないどころか逆に退化してる、ってことで。90年代もバック・トゥー・60年代かもしれないけど、それでもおもしろかったと思う、ってのは多感な時期が90年代だったつーだけなのでしょうか。
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映画おぶじいやー
http://mudaimudai.exblog.jp/4798588/
2006-12-26T23:50:00+09:00
2006-12-26T23:03:28+09:00
2006-12-26T19:26:24+09:00
mudaidesu
映画
映画好きの人たちがよく「今年の映画ランキング」とかやってるんで俺も、とか思ったけど、ランキングつけるの面倒なんで一位だけ。
というか、観てないのがたくさんあるし、観たくても観てないのもあるから、トップ10とかやる気にどうもなれない。
んで、頭の中でいろいろ振り返ってみたけど、結局のところ一位に落ち着いたのはコレ。↓
公式ページ→http://www.vap.co.jp/elieli/top.htm
なんかヤケクソ気味だけど、振り返ってみるとコレになっちゃう。いや、ただ青山真治好きってだけなのかもしれないけど(宮崎あおいもか)。いや、ほんとはすげー期待して観に行ったから、なんだかなーって感想だったんだよね。でも、今振り返って、今年一番の映画は?ってなるとコレになっちゃう。
ただ、映画の肝の「音」だけど、個人的には、いまいちパッとしてないと思った。悪くはないのだけど。できれば「音」で魅了して驚愕させて欲しかったけど、残念ながら「想定内」の「音」にとどまってた。
じゃーどーいう「音」なら満足すんだよ!と聞かれてもどーしようもない。この映画において「満足」という次元の「音」を作るなら、そこらのふつーのプロが作った音楽じゃダメなわけで、すさまじい才能の持ち主が必要になって、そこまで映画に求めるのもムリな話なのでしょうがないのだけど、音楽好きとしてはすさまじいものを体験させて欲しいという願望くらいは表明させてもらいたいところ。
なんか来年も青山作品があって、宮崎あおいも出るようだし、また期待してる。期待しまくって、あーあ、ってなっても、「今年一番の映画」になるわけだから、期待するのが怖いってことはない。
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こじつけすぎ?
http://mudaimudai.exblog.jp/4798545/
2006-12-26T23:48:00+09:00
2006-12-26T23:03:09+09:00
2006-12-26T19:16:15+09:00
mudaidesu
ナショナリズム
でしょうか?
今年、宮台真司がしつこいくらい「セカイ系」について語ってた。
主人公の成長物語という構造を共有しつつ、対照的に駄目な──同一理由で駄目な──アニメもある。宮崎吾郎監督『ゲド戦記』(06)と千明孝一監督『ブレイブ・ストーリー』(06)。同一理由とは、自己回復が世界回復に直結する「セカイ系」であることだ。
「セカイ系」の端緒は庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズ(95-96)。当時担当していた朝日新聞論壇時評で批判した通り、「自分の謎」と「世界の謎」を提示した後、「自分の謎」が解消した途端に「世界の謎」も雲散するという、安易な構造だ。
「世界の謎」とは何故使徒は襲来するか。「自分の謎」とは何故自分はエヴァに乗るか。TVシリーズのラスト、自己肯定を巡る葛藤が克服され「自分の謎」が解消するや、「世界の謎」はどうでもよくなる。こうした「世界=自分」であるような世界をセカイと呼ぶ。
「感情のポリティクス」が横行する背景に、「セカイ系」の人々が量産される現実があることを書きました
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=392
「自分の謎」を「世界の謎」と等置する作品を今日「セカイ系」と呼ぶ。世界が自意識の内側で閉じ、「世界がセカイに過ぎない」からだ。前回、アニメ版『ゲド戦記』が、「世の摂理は人知を越える」ことを描く原作とは似つかぬ、セカイ系であるのを批判した。
安倍晋三新総裁誕生を記念するがごとき文章を書きました
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=399
宮台 小説の世界では二〇〇〇年紀に入るころからライトノベルズとりわけセカイ系が隆盛です。ライトノベルズはかつてのジュヴナイルの等価物としての側面もあるけど、内容的には九六年に流行った『エヴァンゲリオン』の碇シンジのような主人公を描きます。自分が救済されるとなぜか世界の秩序も復元する。「自分の謎」と「世界の謎」が等置されるという内容です。ちなみにアニメ版の『ブレイブ・ストーリー』も『ゲド戦記』もそう。これをセカイ系と言います。不完全な主人公が自己承認に到ると、世界も秩序を回復する。
昨今の映画状況についての座談会[寺脇研、荒井晴彦、宮台真司]での宮台発言です。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=411
僕の考えではセカイ系につながる流れは松本零士さんから生まれました。先ほど紹介した「SF同好会からアニメ同好会へ」ないし「原新人類から後期新人類へ」という世代展開と結びつく話です。『サブカルチャー神話解体』にもサワリを書きました。僕ら原新人類世代にとって、アニメやマンガの表現や享受は、「社会の中での自分の立ち位置をどう組み込むか」ということでした。アニメやマンガを見た後に現実の手触りが違って感じられる作品こそが、高く評価されたのです。
そうした僕らの視座から言えば、セカイ系すなわち「“自分の謎”の解決が“世界の謎”の解決を意味する作品」「自己承認に到ることが秩序回復を意味する作品」は、自分たちが乗っかっているゲーム盤を知らないでゲームをするという意味で、マズい。そういうセカイ系の大元は、松本零士あるいはマイケル・ムーアコックから始まる流れだと思います。 ・・・
自意識を世界大に拡張した作品群をセカイ系と呼ぶのは、世界を“忘却”してセカイに淫するという意味です。
ずいぶん前ですが押井守『パトレーバー』についてのインタビューに応じました
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=413
宮台さんの言う「セカイ系」がどういうものかだいたいイメージできるけど、宮台さんほどこの手のサブカルに詳しくないんで、ちゃんと理解してるかどうか自信ない。
で、宮台さんはこの「セカイ系」ネタを「不安のポリティックス」「不安のポピュリズム」の話に繋げるわけだけど、そのへんの感覚はなんとなく理解できるような気がする。
で、ふと思ったのは、宮台さんが「セカイ系」に対して感じる違和感と似たような感覚を僕が抱いてたあるネタがある。"アレ"。
●「現実の出来事」に嫌な気分になる(="世界の謎(問題)"に直面し、"自分の謎(問題)"を見つける)。
●あることのおかげで嫌な気分がすっ飛ぶ(="自分の謎(問題)"が解決する)。
●「現実」はまったく変わってないのに、自分の気分が晴れるとそれで現実の問題も解消されたかのよう(="自分の謎"の解決が"世界の謎"の解決を意味する)。
で、"アレ"に似てるなと思った"アレ"とはコレ↓。
http://mudaimudai.exblog.jp/2759252/
てか、青っ。というか、半年とか前のってなんかもう全然ダメね。一年前とかなるともう恥ずかしくて読むに堪えない。別に考えとかはたいして変わってないんだけど、どうも違和感がある。今だったら一つ一つをもう少し違ったかんじで表現するような気がしないでもない。とは言っても、別に最近のが「青く」ないわけではない。青さは変わらないのに、なんか不思議。
それはともかく、読み直してみたら、なんだかだいぶわかりづらいね。
ま、ようするに「オオニシ=反日=朝日=NYT」についての話ね。
●「世界一有名な新聞の嫌な記事が世界中に出回ること」に嫌な気分になる。
●「オオニシ=反日=朝日=NYT」を発見or指摘することによって嫌な気分がすっ飛び安心する。
●それでも「世界一有名な新聞の嫌な記事が世界中に出回ること」という「現実(世界)」はまったく変わってないし、その「現実」に対してなんの影響も与えていないのに、自分の気分が晴れるとそれで現実の問題も解消されたかのよう。
自分の中だけではなく他者にも関わることをしているのだけど、当時なんだかなーと思ったのは、「オオニシ記事」について「こういう記事が出たそうです」みたいなブログ・エントリーを書いた人たちに、「オオニシ 朝日」で検索してみるとわかります、みたいな親切なコメントを残してる方々をちらほら見かけた。
内輪だけに通じる回路でも内輪だけで満足してるのなら、まあ人の勝手だわなと思うのだけど、外にもその回路でオッケーみたいなノリには少々びっくらこいた。内輪ではその回路を繋げば問題は解決するのだろうけど、外はそうじゃないのではと。
それはともかく、ただ、こういう「処理」って、多かれ少なかれみんなやってたりするのではとも思う。たしかに、誰にでもこういう処理をして安心したいという欲求はあったり。そういう処理を重ねて、人は現実と折り合いをつけて生きていくものなのかもしれないけど。
自覚の問題でしょうか。どの程度、自分でやってるその処理を自覚できてるかどうかかな?
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ついに観てしまった『花とアリス』。
http://mudaimudai.exblog.jp/4798567/
2006-12-26T23:45:00+09:00
2006-12-26T22:53:48+09:00
2006-12-26T19:21:38+09:00
mudaidesu
映画
ビビってて観てなかった岩井俊二作品。
「好きな映画を二つあげてみろ」とか言われたら、青山真治の『ユリイカ』と岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』をあげてしまいそうな僕でして、おまけに『スワロウテイル』も大好きなんで、岩井俊二作品は観たい人なんですが、ビビって、というかおじけづいてて観れなかったのが『花とアリス』。
なにゆえかって、<少女趣味>のせい。
<少女趣味>。
<岩井俊二の少女趣味>が僕的にダメ。
てか、岩井俊二の『ラブレター』がダメ。映画の題材はすごくいいと思うし(もうほとんど忘れたけど)、豊川悦司はけっこう好きなんだけど、なななな中山美穂さんがダメ。みてらんない。いわゆる「生理的に受けつけない」ってかんじです。
『ラブレター』は<少女趣味>ってかんじではないのだけど、後から考えると、僕がダメな「かほり」がとても出ていたなあと。
で、<岩井俊二の少女趣味>だけど、『FRIED DRAGON FISH』(しょぼい)を観たときに「あ、岩井さんってこういう人なのね」とガッテンして、『ラブレター』がダメだった理由がなんかよくわかったような気がした。って、なんかうまく説明できないけど、そんなところ。
と言いつつも、<岩井俊二の少女趣味>全開の『四月物語』はけっこう良かった。まあ気合いが抜けててさっぱりしてたせいだろうけど。
そんでもって『花とアリス』。どうもおじけづいてしまって観れないでいた。
けど、観た。
予想通り。
しょっぱなの鈴木杏と蒼井優が戯れるシーンから<岩井俊二の少女趣味>全開。
というか、岩井俊二はほんと「うまい」と思う。もう何度も「うますぎ!」と思った。
でもね、やっぱ<岩井俊二の少女趣味>は僕的にダメ。うざすぎ。
『花とアリス』のお話はとてもおもしろいし、主役の二人もすごくいいから、もっとふつー?の映画にしてくれよと思った。<岩井俊二の少女趣味>的な部分を7割減らせば、僕的にはすごい好きな作品。
つーか、バレエ関係のシーンいらん。マジでいらん。
とはいってもなー、最後の蒼井優のバレエシーンは絶対必要だしなー。んー。
妥協ってことで、バレエのシーンの数と時間を減らしてくれ。
ちなみに、バレエそのものは好きですよ。もちろんドシロウトですが。というか、はじめてバレエ観たときはものすごい衝撃?だった。「バレエ?バレエかよ」程度のノリで観に行ったら、あらららら、でした。すげーと。
てか、<少女趣味>なら『笑う大天使』の方がまだ好き。
質というか完成度その他モロモロは全然下だけど。というか、比べるなだけど。
でもあそこまで少女少女してながらも、2時間以上見せ切る底力はやっぱ岩井俊二のすごさ?
というか、『笑う大天使』は<少女趣味>とか以前に、ただの<おバカ>か。
なんだか、『笑う大天使』はやたらと評判悪いけど、僕としては、映画としてどうよ?とかボロボロじゃん?とかアレは?コレは?とかそういう細かい話はともかく、それなりにおもろかったんだけど・・・。
原作をまったく知らなかったら、おバカな展開もウケたし。僕としては<おバカ>好き。よくかかってた音楽が良かった。あのギターが途中から入るヤツ。お嬢様ワールドにアナ―キーなものをぶちこむ雰囲気がよく出てる曲。
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嫌韓@MLB掲示板とか、属性とか。
http://mudaimudai.exblog.jp/4798509/
2006-12-26T23:43:00+09:00
2006-12-26T22:59:19+09:00
2006-12-26T19:10:31+09:00
mudaidesu
ナショナリズム
ある意味、「靖国とかアメリカとか。」あたりのつづきっぽいともいえる。
というか、だいぶ昔のネタなんだけどちょっと前に思い出したんで。
野球と嫌韓ネタについては、「「神聖なる野球」への冒涜 僕の「民度」」とか「巨人韓国人四番とか嫌韓とか」とか「続・巨人韓国人四番とか嫌韓とか」とかあたりでちょっと触れた。
まあひさしぶりと言っても、中身はおんなじようなネタなんでとっくに飽きたんですが、ちょっとした話。しばらく前のこと。メジャーリーグの公式掲示板の話。
WBCのとき(ずっと前だな)に覗いてみたら偶然見つけたもの。たいした話じゃないんだけど、象徴的だとは思うんで。いやほんと、いまさらかよ、なんだけど。
ある日本人があるスレッドを立てた。本当に日本人かどうかはたしかめようがないけど、まあ書いた文章を見るかぎり確実だと思う。この人は典型的な「親米嫌韓さん」。陰口になってこの人には悪いんだけど、興味深いものだったんでごめんねってことで。
この人の書いたことを要約すると、こんなかんじ。↓
日本人は韓国人(Korean)とまったく違う文化を持ってます。完全に違います。ルックスも全然違います。日本はアジアには属しません。太平洋に属すると言った方が適切です。親愛なるアメリカ人のみなさん、日本人と韓国人をいっしょにしないでください。区別してください。おねがいします。
私はアジア人は好きです。しかし、それは「特定アジア人」以外のアジア人です。中国・韓国・北朝鮮の「特定アジア人」は日本人を憎んでます。日本人と彼らはわかりあえません。大陸の人と島国の人では根本的なところで、本質的なところで違いがあります。
「アジア人は好きです」とか言いながら、他の場所では韓国人の「先進的」じゃないところや「野蛮」なところや「民低」なところなど他のアジア人(だけじゃなくて日本人含め世界中の人すべて(先進国だろうとなかろうと)でいいですが)蔑視にも容易に転用可能な「根拠」「事実」を列挙して、「韓国人はどうたらこうたら」「韓国人の特性・民族性はどうたらこうたら」言ってたりしてないの?とか思っちゃいますが。
それはともかく、なんだかめちゃくちゃ天然さんというか素朴なんだよね。あまりにあっけらかんとしてて悪気を感じないくらい。自分の言ってることの「アレさ」や「奇妙さ」にまったく自覚的じゃないというか。
イラク人質問題にしろ嫌韓にしろナショナリズムにしろ、こういう素朴でカジュアルなノリのものに喰いついちゃってる僕ですが(↑の巨人韓国人四番エントリーもそう)。まあでも最近の風潮(もう下火かもしれないけど)を理解する上では、こういうものについてこそ考える必要があるのかもってことで。
で、こういう「奇妙さ」についてだけど、他者から見れば「なんだそれ」って思われるってことに自覚的じゃないってことが奇妙。いわゆる世間の常識と違うことを言ってるって自覚がない。
あまりに日本の嫌韓的な言説に慣れすぎちゃってて、それが「普通」だと思っちゃってて、いわゆる世間や世界の常識との乖離に自覚的じゃないってことだろうか。
「世の中の規範や常識がおかしいんであって、自分が正しい」と思うのは悪くない。ひねくれものの僕としてはその気持ちもよくわかる。けど、自分の思想や考えがどう見られるのか、どこに位置するのかについては多少は自覚的であったほうがいいような。
自覚した上で、あえて「世間の規範や常識に挑戦する」みたいなノリだったら、まあわかる。
世の中を見渡して、自分を自分なりに客観視することは大事かと。その上で、自分なりの考えなり思想なりの正当性を訴え世間に挑戦すべきかと。これは「ナベツネ on NTY」や「イラク人質問題 17 海外報道」とかで書いたことと同じかも。
まあとにかく無邪気すぎるような。それゆえに、より攻撃的で凶暴な言説・言動になってしまったり。幼児の無邪気な残虐性みたいな。
で、↑の話に戻るけど、「特定アジア」という表現について。この人は「specific Asian」と書いてたけど、ようするにいわゆる「特定アジア人」ってことだろう。これなんか完全な蔑視用語になってるでしょ。蔑視したり貶めたりするための「意図」で使われる言葉なんだから。ようするに「差別用語」なのではと。
余談だけど、ただ、僕はあまりレイシズム的なものに対して「差別」という表現は使わない。理由はこんなかんじ。↓
↑で、この二人(レイシスト少女二人組ユニット)を教育したお母さんがちょっとインタビューされてんだけど、「自分のことレイシストだと思う?」と聞かれて、「レイシズムってのは、レイス(人種)に違いを見出すこと(区別すること)。そういう意味では、誰でもレイシストだと思う」みたいなことを言ってた。
これは、その言動は人種差別だとか、民族差別だとか言われた人が、「差別じゃない区別だ」って言うのと似てると思う。「区別だ」と正当化するときに含んでるのは、「違いがあるのは事実。そしてその違いを認識してるだけ。そして、違いを認識するのは当たり前」みたいな主張だと思う。
僕としては、差別的言動とか表現ってのは、ある特定の属性(人種や民族とか)を嘲笑したり蔑視したり貶めたりの「意図」を持ってする「区別」だと思うけど。
日本語だと、普通は「差別」って言葉しかないから「区別してるだけ」みたいな詭弁が容易なんだと思う。だから、ヘイトスピーチとかに関しては「差別表現」みたいな言葉を使わない方がいいと思う。
そんなわけで、僕はわざと「レイシズム」って言葉を選択してる。「差別」って言葉は使わないで、「嘲笑」とか「蔑視」とか「憎悪」とかそういう言葉を使って表現してる。あくまでヘイトスピーチのような表現に関しては。行政のルールとかについては「差別」でいいと思う。
ウケすぎ。愛国ネタ。
んで、そもそも「ジャップ」みたいな表現だって、「ジャパニーズ」を短縮しただけかと。それでも、日本人を嘲笑したり貶めたりする「意図」で使われたから蔑視用語になったのではと。蔑視用語なんてみんなそんなもんかと。使われ方、使われる際の意図によって、そういう用語ができあがる。
「ニガー」ってのもそうでしょ。もともとは蔑称ってより、ただ黒人という意味の言葉の一つだったのではと。黒人そのものを蔑視してたという前提もあるけど、あくまで分類するための言葉なのではと。便宜上、「区別」するための。でも、次第に黒人を貶めるという「特別の意図」を持って使われるようになっていったので、いわゆる蔑視用語と見なされるようになったんでしょう。
そういう言葉を「狩る」かどうか、狩るなら「狩り方」はどうすべきかはまた別の論点。
で、話戻すと、この人の書き込みに対して、レイシズムの臭いを感じとったのか、いろんなツッコミが寄せられた。まあ、ほとんどはアメリカ人からだと思うけど、どんな属性を持った人がツッコんでるかはもちろんわからない。
ツッコミの内容は、「レイシズムやめろよ」「感じ悪いよ」「そういうこと言うなよ」「俺の知ってる日本人・韓国人・中国人はみんな似てるし仲良くやってるぞ」「他のアジア人をバカにしてる日本人って結構いるみたいね」「大陸・島国ってそんなに簡単に違うって言えないでしょ。イギリス人と他のヨーロッパ人もたいして変わらんし」とかまあ普通のツッコミ。
ついでに、あやしい英語に対して「英語を勉強してから来い」みたいに馬鹿にしたような排他的なツッコミは一切ない(←立派)。
レイシズム的な調子に怒りを表してる人もいれば、無邪気なのを感じとって優しく諭そうとしてる人もいた。韓国人(自称ね)からの「まあまあ、そういうこと言わないでよ。アジア人同士じゃないの」みたいのもあったような(他のスレッドだったかも)。
で、僕もちょっと書き込んでみた。
日本人をよく知らない人に、おまけにレイシスト的な傾向のある人に、ああいうのが日本人の典型とか思われたらたまらんな、とも思ったんで(まあそんな人ほとんどいないだろうけど)。偶然見ちゃったのも何かの縁かと。というか、めんどうくさがりの僕が書き込むんだから余程のことかと。
てゆーか、ナショナリストっぷり発揮しちゃったウルトラ愛国者の僕です。
日本を救え!日本人の名誉と誇りを守れ!みたいな声がどこからか聞こえてきました。
んで、あのニューヨークタイムズのオオニシ記事を紹介し(この記事に必ずしも同意するわけじゃないけどイントロとしては悪くない、と但し書きをつけて)、日本の嫌韓とネット状況を簡単に説明した。こういう人けっこういるのよと。
↑の人の書き込みもめちゃくちゃ脱亜入欧米なので、なにげに(西尾さんとかの)「脱亜入欧」思想に触れたオオニシ記事はピッタリかとも思った(西尾幹二とネタとかベタとかロマンとか )。ついでに、日本のレイシスト系のみなさんはほとんど「親米」だよ、とアメリカ人たちに対するイヤミも。
あと、ちょっと経った後に、↑の日本人の書き込みへの敵意剥き出しのものもあったんだけど、おそらく韓国人かなあと思った。この人は「日本人はアジア人じゃなくていいよ。こっちから願い下げ。日本人はアメリカの犬のくせして。ふざけんなよ」みたいなことを書いていた。
これに対しては、「おたくもレイシストっぽいよ。そういうのやめなよ。怒りはわかるけど、違う表現の仕方があんじゃないの」みたいなこと書いた。そしたら、この人、「ごめん。恥ずかしいことしちゃった。レイシストと同じことしちゃった」と。
この人は韓国人じゃなくて、日本に住んでる東南アジアの人(母国では野球は盛んじゃないけど日本で野球好きになったそう)らしい。韓国人や中国人に友だちがたくさんいるから、↑の日本人の書き込みが許せなかったみたい。
レイシストみたいなこと言っちゃう人ってのは、なにげに正義感が強かったり真面目だったりするってのの典型かと。↑の日本人もそうだと思う。真面目っぽい。そして純情。悪い人ではないような。
で、話はここで終わらず、いろいろなツッコミに思うところがあったみたいで、↑の日本人は自分の最初の書き込みを修正した。「ごめんなさい。みなさんを怒らすつもりはなかったです。もうちょっとこのことについて考えたいです。韓国人の友だちもいます」とか書いてた。
ほんとに韓国人の友だちいんのかよ、とは思ったけど。韓国人の友だちがいるなら、いかに韓国人と日本人がいろんな面で似てるかわかるだろうし、↑みたいなこと無邪気に書かないと思うけど。で、結局、恥ずかしくなったのか、このスレッド自体を完全消去しちゃった。
で、思うのは、この日本人が無邪気で純粋なのはわかるんだけど、アメリカの掲示板で、英語の通じる場所で(=何十億人もが読める可能性)、アメリカ人(この人のイメージでは白人?)であろう人たちにガーっとツッコミ入れられたから、ハっとして、考えなおしてみようと思ったのかもしれない。
「名誉白人」として白人さん(イメージ上)たちにしかられるのはいかがなものか、みたいに。
つーか、あんなこと書き込むなら、世界に向けて発信するなら(いや、日本語だろうと何語だろうとネットで書けば世界へ発信だけど)、反発を当然予想してて、でもそれでも「あえて」やってると普通は思うけど、やっぱ素朴に無邪気なだけだったのかなーと。反発に驚いちゃって発言撤回しちゃったわけで。
これが、日本語の場所で、日本人のサヨや「特定アジア人」からの同内容のツッコミだったら、また違った反応を示したかもしれない。
欧米崇拝というか、欧米人(白人)に認められたい褒められたい、みたいなノリって、昔から日本人に広く共有されてると思うけど、これ自体には別に文句はないんだよね。それなりにポジティブな感情だろうしそういうノリって。自尊心の一つの回路としてはそんなに文句ない。
「報道の自由度ランキング」で日本が51位で韓国が31位なのを見て悔しいからもっと日本の順位をあげたい、みたいに思うもの回路自体は似てたりもする(違うところもたくさんあるけど)。
ただ、露骨なアジア蔑視みたいなネガティブな感情とモロにドッキングしちゃうと、いや~んばか~んなかんじがしますな。(「靖国とかアメリカとか。」の「抑圧移譲」みたいのとはまたちょっと違うかもね、この感情の動きは。)
おそらく、反中とか嫌韓の前にあった欧米崇拝ってのは、「アジア蔑視」というより「アジア無視」だったと思うんだよね(もちろん「蔑視」もあったけど)。目に入ってない、みたいな。意識の外みたいな。北朝鮮の存在が数十年間そんなかんじだったように。
こういう「アジア無視」みたいのもどうかと思うけど、僕としては、ちらほら書いてきたけど、ボトムラインとしては「スルー」はオッケー。というか、しょうがない。
まあ、美意識の問題かなあ。
超単純化するけど、「ある人やある属性(人種民族国籍等)を侮蔑しまくるけど、違う人や違う属性には媚びる」ってのと、「ある人やある属性を侮蔑しまくるけど、誰にもどの属性にも媚びない」ってのがあったとすると、両方酷いってたら酷いんだけど、どちらがよりみっともないかというと、やっぱ前者のような気がするし。
どうせなら、他者を全部侮蔑したらどうかな、とまでは言わないけど(それも酷いには変わりないし)。で、「ある人やある属性には媚びるけど(欧米崇拝)、他の人や属性には興味がない(アジア無視)」ってのには、まあどうかと思うけど、文句つける気はあんまなかったり。
で、なんでいまさらこんなネタを思い出したかというと、ちょっと前に、欧米に住んでる左派系の方のある文章を読んだから。内容を要約するとこんなかんじ。↓
日本にいたときは、日本人は韓国人や中国人より優れた民族だと100パーセント信じていた。しかし留学したらそんな信念は一挙に崩壊した。海外では、日本人も韓国人も中国人も同じアジア人だということを実感した。日本人だからといって、韓国人や中国人より優遇されることはほとんどない。みんな同じアジア人として扱われる。自分にとって、日本人と韓国人と中国人が同等だというカルチャーショックはとても大きく、自分の中でそれを受け入れて、それを認めるまではけっこう長い時間がかかってしまった。
すごく正直な告白だなと。「欧米人の仲間で、アジア人とは違う」という意識というか欲求みたいなものをとても正直に表現しているなと思った。
「欧米人から与えられた『アジア人』という属性」を素直に受け入れる、ということについてはまた別の論点(オリエンタリズムとか)として議論が必要だとは思うけど、とりあえずそれはスルーで。
というか、他の属性を蔑視しながら「一緒にすんな!」ってのはレィシズム的だけど、レイシズム的なノリなしで「差異を理解しろよ!」ってのは、当然すべき主張かと。差異万歳系の僕だし。
話戻して、自分自身はどうだっただろう?と思うと、あまり記憶になかったり。
何度か書いてるように、なにげに昔は右っぽかった僕ですが、あまり「属性」について考えてなかったような気がする。韓国人とか中国人とか白人とかそういうことが頭になかったような。「スルー系」ですな。
「日本人」という「属性」についての意識、というかアイデンティティはけっこうあったけど、他の属性についてはあまり頭が回ってなかったと思う。ただパッパラパーってかんじで。
そんでもって、住んでたのが基本的にはニューヨークとその近辺なんで、「白人/アジア人」「白人/非白人」みたいな露骨な構図とかは周りに存在しなかった。そのせいか、「属性」についてもだいぶ柔軟というかイイカゲンな感覚になったような気がする。
たしかに「白人」(っぽい人)が数的には一番多いわけだけど、いわゆる「アングロサクソン」的な人々のプレゼンスはたいしたことなかったような。「白人」っぽいといっても、混ざりまくりだし。東欧系だったり南欧系だったりも「白人」なんだろうけど、やっぱ一世代二世代前の移民だったりで、「マスター人種(race)」的な雰囲気はまったくなかったし。
そして、「アジア人」っぽい人や「ヒスパニック」っぽい人たち(「黒人」っぽい人たちも)のプレゼンスがもの凄いし。全然マイノリティってノリじゃなかった。そういう状況だと、「マスター人種(race)的」なノリは存在しようがないかなと。
ついでに、「国籍」という属性についても、外国人がゴロゴロしてるから、誰が何人かなんて誰にもさっぱりわからないし、もちろん不法滞在&不法就労なんて当たり前だし(そういう日本人も無数にいる)。
そんなわけで、「日本人」であり「アジア人」であり「外国人」の僕が疎外感っぽいものを抱くことはほとんどなかった。
そりゃ、立派な高層ビルの上の方には「マスター人種(race)」的な方々もいたんでしょうけど、下々の我々の視界にはほとんど入ってこなかったような。ただ意識してなかっただけかもだけど。
てか、これこそが「21世紀の巧妙な支配の形態」だったりするのかも(笑)。
まあ、そもそも「人種」や「民族」で「属性」の境界をはっきりさせること自体がムリなんだけど。
そ~いや、「ニューヨークタイムス・マガジン」(ニューヨークタイムスの日曜版についてくる)で、いつか 「what is race?」(人種ってなによ?)って表紙があった(いつぞやのベネトンの広告のような)。何十人かの顔の写真が並んでるだけ。混血しまくりでわけわかんねー、骨格白人っぽくて、色は黒かったり、逆だったり、鼻はあれで、唇がこうで、マブタがああで、髪の毛があんなかんじで、とにかく、もうごちゃごちゃ。
raceっていっても、もうわけわからんっすよ。
「ヴィレッジ・ボイス」という、ニューヨーク近辺でばら撒かれてるフリーペーパーがあるんだけど、分厚くて内容も濃い。で、おもしろいのが「lookinng for (探してます)」のセクション。ようするに出会い欄。そのプロフィールのところがすごい。自分の特徴、人種、民族とかについてが。たとえば、「1/4ロシアン、1/8ブラック、1/8アジアン、1/8アイリッシュ・・・」とか、もうわけわからねー、想像できねー、なのばっか。まあ、これはニューヨーク近辺のだからそうなんだろうけど。
http://mudaimudai.exblog.jp/1146492/
こんなかんじだし。
「属性」についての僕の感覚というか自覚は(ようするに自分自身のアイデンティティ)、思い出してみると、時と場合によっていろいろで、関わる他者によって変化してたと思う。
「自分/他者」だとすると、たとえば「日本人/アジア人」「外国人/アメリカ人」「東アジア人/他のアジア人」「日本人/韓国人」とか。
組み合わせによっていろいろ変わったり、同じ組み合わせでも時と場合によって変わったり。
たとえば、「日本人、韓国人、フランス人、インド人、アメリカ人」とかだったら、「外国人/アメリカ人」のときもあれば、「アジア人/欧米人」のときもあったり、「日本人/非日本人」のときもあったり。
時と場合と都合によって、自分の属性やアイデンティティがコロコロ変わるわけだから、一つの属性について「本質主義」的に考えたりするのがアホらしいのは当たり前。人の「属性」を意識するのは、あくまで「便宜上」ってかんじかと。
ちなみに、何度か書いてるけど「みんな同じ」みたいなノリは好きじゃない。「みんな違う」ってノリの方が好き。差異万歳系。
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富江 最終章 ―禁断の果実― 宮崎あおい
http://mudaimudai.exblog.jp/4798555/
2006-12-26T23:35:00+09:00
2006-12-26T23:12:41+09:00
2006-12-26T19:18:08+09:00
mudaidesu
映画
すんごい映画です。↓
わざとらしいメガネさんの宮崎あおい
登下校の際にイジメられる宮崎あおい
いじめっ子に敬語を使わされる宮崎あおい
さえないお父さんに軽く毒づく宮崎あおい
コンタクトレンズにしたいとお父さんに話す宮崎あおい
富江とお友だち風になれて嬉しそうな宮崎あおい
密かに書いていたレズ風猟奇小説を富江に音読されアニメ顔で嫌恥ずかしがる宮崎あおい
富江に目隠し緊縛される宮崎あおい
夕暮れ時に切ない音楽をバックにちゃりんこ乗る宮崎あおい
夕暮れ野外で寝っころがりながら富江と抱擁をかわす宮崎あおい
そして富江の指を舐めさせられる宮崎あおい
うっとりしながら幸せそうに富江の指を舐める宮崎あおい
富江の生首を拾って抱きかかえる宮崎あおい
化け物(富江)の生首を育てることにした宮崎あおい
化け物(富江)をお風呂に入れてあげる宮崎あおい
化け物(富江)の生えてきた小さい手を「かわいい」とつんつんする宮崎あおい
化け物(富江)にお食事を「あ~ん」とあげる宮崎あおい
化け物(富江)に「○○味だお」と教えてあげる宮崎あおい
化け物(富江)に怒鳴られる鈍くさい宮崎あおい
化け物(富江)を乳母車に乗せてあげて外をお散歩する宮崎あおい
化け物(富江)をバックにいれて家出する宮崎あおい
エロおやじに街で声をかけられる宮崎あおい
化け物(富江)を持って家出するも結局困ってしまう宮崎あおい
化け物(富江)に罵られる宮崎あおい
化け物(富江)をビルの屋上から投げ落として殺す宮崎あおい
生き返ってきた化け物(富江)をクールに殺す宮崎あおい
うろたえる父親の脇で「また生き返るよ」とクールに投げやりに言い捨てる宮崎あおい
氷の中に閉じ込めた化け物(富江)をうっとり鑑賞する宮崎あおい
化け物(富江)をうっとり鑑賞しながら父親とスナック菓子を食べる宮崎あおい
化け物(富江)に襲われる宮崎あおい
冷凍室に閉じこめらる宮崎あおい
凍える宮崎あおい
危機一髪でおっさんに救出される宮崎あおい
化け物(富江)をまた育てることにしたらしい宮崎あおい
化け物(富江)の耳片に「ああ愛しい」というかんじで声をかける宮崎あおい
こんな映画です。
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容赦なかった『硫黄島からの手紙』 ―― 「落ち着けよ俺」でした。
http://mudaimudai.exblog.jp/4727076/
2006-12-14T12:30:00+09:00
2007-01-11T02:18:07+09:00
2006-12-13T21:10:34+09:00
mudaidesu
映画
「政治的に正しすぎる「父親たちの星条旗」――「硫黄島からの手紙」は?」で書いたことは、大ボケだったっぽい。でこのエントリー終わりでいいんだけど、ちょろちょろと。基本はおバカエントリー。
観る前の話。つまらない、つまらなくない、ってのがまあ僕にとって大切な要素ではあるんだけど、その点、ある意味「ゾンビもの」になってたらおもしろいかも、とかちょっと思ってた。不謹慎なかんじもしないでもないけど、<映画>だから。
「政治的に正しすぎる「父親たちの星条旗」――「硫黄島からの手紙」は?」コメント欄でちょっと触れたけど、「日本兵=ゾンビ」ってイメージとは逆に、「アメリカ兵=ゾンビ」だったら映画的におもしろいのではと。多勢に無勢で地下道に残された絶体絶命の人間たちにソンビたちが迫りくる。
なーんておバカなことばっか思ってたわけだけど(プラス↑のエントリーの後半部分=「硫黄島からの手紙」大丈夫か?)、で、観てきましたが、まあ「政治的に正しすぎる「父親たちの星条旗」――「硫黄島からの手紙」は?」のコメント欄でもらったコメントとそのコメントへのコメントですべて、ってかんじではある。転載。↓
こんちは。『硫黄島』観てきましたが、
>イーストウッドは、日本人たちの戦争についてはクリティカルに描かないのではと。
というのは杞憂だったように思います。けっこうクリティカルだったかと。あまり書くとネタバレっぽくなっちゃいますが、『父親たちの星条旗』と同じような印象の映画でした。まさに表裏一体というか、「政治的正しさ」まで表裏一体。で、「映画的快楽の不足」まで表裏一体と。苦笑
この二部作については、クリント・イーストウッドという映画作家がとてつもなく偉大な人間であることがおおっぴらに証明された一方、映画作品自体はいまひとつはじけ切れていない、今のところはそういう風に見ています。
こんちは。私も観てきました。月曜日。ryoddaさんのコメントも今見たんでネタバレ大丈夫です(笑)。
で、ryoddaさんのコメントの一字一句すべてに同意です(笑)。
>というのは杞憂だったように思います。
でしたね。「大日本帝国的なもの」にも容赦なかったですね。なんか私は「先走り液くん」ってかんじでした(笑)。ダセー。
>『父親たちの星条旗』と同じような印象の映画でした。まさに表裏一体というか、「政治的正しさ」まで表裏一体。で、「映画的快楽の不足」まで表裏一体と。苦笑
>この二部作については、クリント・イーストウッドという映画作家がとてつもなく偉大な人間であることがおおっぴらに証明された一方、映画作品自体はいまひとつはじけ切れていない、今のところはそういう風に見ています。
私もまったく同じこと思ったんですが、フォローしとくと『父親たちの星条旗』よりはつまんなくはなかったです。一応、物語として結末があるんで、その結末へ向かっていく話として描いていたんでまあ楽しめた、という表現は不謹慎?なかんじもしますが、かなりふつー、というか真剣に集中して観れました。
一応、テキトーなエントリーをアップしときます(笑)。
ま、イーストウッドは偉大だったということで。
●つーか、朝一で行ったからじいちゃんばあちゃんが多くて、なんか俺も真面目に観なきゃ、おバカなことばっか言ってる場合じゃねーな、みたいに思ったりもした。
●でまあ、「アメリカを知ってる栗林&西」を美化しすぎちゃう?(『父親たちの星条旗』にはなかった要素=ヒーロー)とは思った。けど、実際のところどうだったのか無知な僕にはよくわかりません。硫黄島について細かいこと全然知らないから、日本兵のみなさんたちは実際どんなもんだったんでしょうね。
というか、栗林(&西)の描写はアメリカ人のプライドをくすぐるし、日本人にとってもこの二人の存在は「救い?」みたいなもんなんだけど(実際、栗林本とかいろいろあるし)、「日本純粋培養じゃないからこその人物」ってかんじで日本人としてはなんか余計に物悲しかったり。(「日本純粋培養」なんて概念は幻想だけど、たとえとして。)
●ところで、「硫黄島の戦い」自体は、玉砕の割には他の酷い作戦よりはだいぶマシだったみたいね。というか、図書館で硫黄島関連の本何冊か借りようと思ったら、貸し出し中まくりMAX状態。買えって?上坂冬子さんの本は上坂冬子さんだから「美化系」?
●しかしながら、アメリカの主流映画で「外国人が外国語を普通に話す」のを観ると時代の変化を感じる。実際、字幕嫌いのアメリカ人の方々ってけっこういるんだよね。外国映画好き以外は字幕に慣れてないし。
とにかく、最近のアメリカ主流映画は、おもしろいつまんないは別にして、ほんとに"政治的に正しい"のが多い。
というか、最初から最後まで字幕の映画がアメリカ中のシネコンでやってるってすごいな(やってるよね?)。そんな映画、おそらく他は「グリーン・デスティ二ー」くらいだったのではと。
●前半、「もっと地味な『ジャーヘッド』状態」だったし、こりゃ完全にアメリカ人その他向けの映画かな、と思って、こっちもつまんねーなー、ってなかんじだった。「真面目に観なきゃ」とか思ってたくせして、そんな初心はすぐ忘れてた。でも、途中からは↑のコメントで書いたようにふつーに真剣に集中して観れた。
●つか、会話描写が「どうせ字幕にするからテキトーでいいよ」的なノリだったのに萌えた。
●ところで、最初、西竹一役の人が照英に見えて「えー」となったけど、伊原剛志でほっとした。
●そういえば、元横浜で今年ドジャースの斎藤が出ててびびった。
●てか、言っちゃっていいですか? 渡辺謙&玉砕モノとしては、「ラストサムライ」がけっこうおもろいと思ってしまった。トムとケンの陳腐なトークはうざいし、小雪ネタもアレだし、文句は無数にあんだけど、なにげにおもろかった。
追記。宮台真司が硫黄島二部作について書いてる。↓
日本のサブカルは今年もますます「痛み」や「悲劇」から遠ざかりました
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=440
少し抜粋。↓
音楽に限らず、今や殆ど全ての作品が「他人事」化した。典型が「死にオチ」だ。『世界の中心で愛を叫ぶ』『いま、逢いにゆきます』から『タイヨウのうた』『虹の女神』まで、ドラマや映画(やタイアップソング)は「死にオチ」だらけだ。「死にオチ」は痛いか。
確かに痛かろう。でも架空の痛みだ。映画では大切な人が死んでも、現実にはまず死なないからだ。イジメ自殺報道と同じで「死んでくれれば盛り上がるのに」と言わんばかり。むしろ現実における無痛化を翼賛するだけ。死は所詮「他人事」。少しも突き刺さらない。
セカイでなく「自分が生きる〈社会〉をちゃんと含んだ〈世界〉」が織りなす理不尽──〈世界〉の根源的未規定性──を描いてこそ、現実の痛みとして突き刺さるだろう。今年の邦画はそうした作品が僅かだった。山田洋次監督の『武士の一分』が数少ない例外だ。
国家の自己都合で踏みにじられる人生を嘆くと同時に、具体的近接性から生じる感染(ミメーシス)を擁護する。真性右翼的だ。そして何より、米軍側のみならず日本軍側の内発的感染も平等に擁護する、亜細亜主義者にも通じる国際主義的な構えこそ、真性右翼的だ。
繰返す。そこでは「悲惨な死」が告発されているのではない。内発性と無関連な記号に操縦された「理不尽な生」が、一部の人間たちの人為によってもたらされるという近代社会の在り方こそが、警戒すべき抽象性として言挙げされる。それこそが真性右翼的なのだ。
その意味で、イーストウッド監督が、記号的操縦の最たるものとしての国家的枠組に基づく友敵関係(カール・シュミット)の向こう側に、具体的近接性に基づく友敵関係を置き直すべく、同じ戦場における日本側を『硫黄島〜』で描こうとするのは、一貫している。
因より先に記す右翼国際主義の立場──各パトリ毎のパトリオットを尊重するが故に是是非非の共生を模索する──に立つ監督にすれば、『男たちのYAMATO』の如き非エリート的認知的歪曲にコミットする筈もない。エリート故の「理不尽な生」だけが肯定される。
監督にとって、国のために死ぬとか家族のために死ぬといった国の物言いを信じるのは、馬鹿のために死ぬのと同じだ。それを薄々知るが故にこそヘタレは現状追認的に国家の崇高性を信仰したがる。傍らの友のために死ぬというミメーシス(感染)だけが肯定できる。
『父親たち〜』『硫黄島〜』は共に「悲惨な死」故でなく「理不尽な生」故の反戦を押し出す。だが、『硫黄島〜』は加えて、認知的不協和回避の為の「国の崇高」「潔き自死」の如き逃避的信念を否定。栗林中将の「理不尽な生」に倣え(ミメーシス!)と推奨する。
ここに、逃避的信念を回避して「理不尽な生」に耐え得る者だけが──超越(崇高な国家!)に依存せず〈世界〉の根源的未規定性に開かれた者だけが──「理不尽な生」を強いる馬鹿を見通せるという、初期ギリシアに連なる真性右翼ならではのメッセージを見る。
〈世界〉の根源的未規定性に開かれた態度とは、悲劇を見通す力。「理不尽な生」を強いる馬鹿が国家を名乗るのが世の摂理。その悲劇を知るからこそ馬鹿を血祭りに揚げる機会も手にできる。人の世を観察するが故に悲劇が突き刺さる者だけが革命家になれるのだ。
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政治的に正しすぎる「父親たちの星条旗」――「硫黄島からの手紙」は?
http://mudaimudai.exblog.jp/4629444/
2006-11-27T17:28:00+09:00
2007-01-11T02:17:16+09:00
2006-11-27T17:28:10+09:00
mudaidesu
映画
「ミュンヘン」について"政治的に正しくない"(とまでは言ってないけど。というか「アラブ人を描いたアメリカ映画としては十分"政治的に正しい"ってノリで書いたけど)みたいなことを前にくどくどだらだら書いたけど(「ミュンヘン」とか宗教右派とか他のこととか &ミュンヘン 2 政治性とのつきあい)、「父親たちの星条旗」は"政治的に正しい"。
ほんとに正しい。これほど"政治的に正しい"映画なんてあんまねーだろってくらい"政治的に正しい"。というか、第二次大戦のアメリカを描いた作品とは思えないくらい"政治的に正しい"。すさまじいまでに"政治的に正しい"。
ゆえにこの映画はつまらない。
あ、言っちゃった。
いや、いい映画だとは思う。多くの人に観てもらいたい。世界中の政治家さんや偉い人たちに観てもらって冷や汗でもかいてもらいたい。メディアの方々や広告関係のみなさんたちにも観てほしい。って、プロパガンダはうまくやらんとな、って教訓にされちゃうか。というか、後に暴露されてもそのときうまく行けばそれで成功か。
それはともかく、しつこいけど"政治的に正しい"作品。"politically collect"すぎ。どのように"politically collect"なのかについては、あちこちで言われてるだろうから省略。
つか、"政治的に正しくない"映画を観ると、それはそれでムカツクし、なんだかなーってなるんだけど(たとえばいろいろ大変だった「英雄の条件」とか)、"政治的に正しい"映画を観ると、それもそれでなんだかなーとなってしまうのはただひねくれてるだけなのでしょうか。
(そういや、この前「マーシャル・ロー」やってたけど、この映画も「アラブ人を描いたアメリカ映画としてはかなり"政治的に正しい"作品」。昔(9.11以前)観たときはあんまそういうこと考えなかったけど、今考えるとだいぶ政治的に正しい。9.11直後、日本でテレビ放映が自粛されたって話を聞いたけど、9.11直後こそ、あの映画をやるべきだったような。というか、拷問容認にぶちきれるFBI捜査官デンゼル・ワシントンを「24」のキーファー・サザーランド(拷問。)と比べるとすごいギャップ。)
というか、つまらなかったのは映画が"政治的に正しすぎ"だからじゃなくて、映画そのものせいか。てか、似たようなシーンばっかなんだもん。戦場のシーンも、気色悪いプロパガンダのシーンも、「英雄」たちがなんだかなーって思ってるシーンも、みんな似たようなのが繰り返されるだけ。
イーストウッドの視点はすばらしいし、映画のテーマも完璧なんだけど(だから"政治的に正しい")、結局のところ視点とテーマだけでその他はなんだかパッとしなかったような。つか、その視点とテーマも、アメリカ人にとっては"政治的に正しい"けど、日本人にとっては「いまさら」っぽいし。
って、この映画を貶めすぎでしょうか。まあ、いい話は他の方々がいろいろ書いてくれてると思うんで、あえて、ということで。
というか、「なんのために戦うのか」というテーマ&答え的には「ブラックホーク・ダウン」と同じなんだけど(「no one left behind」問題も)、僕的には「ブラックホーク・ダウン」の方が好き。
大真面目で"政治的に正しい"「父親たちの星条旗」に比べると、「ブラックホーク・ダウン」は少々エンターテイメント風味があって、微妙に"政治的に正しくない"ところもあるのだけど、映画的にはよくできてるし、観てるこっちもいろいろ悩ましかったりした。というか、リドリー・スコットがけっこう好き。
まあでも、リアルタイムでガンガン戦争やってるアメリカでこの武骨な作品をつくったイーストウッドはすばらしい。
ところで次の「硫黄島からの手紙」だけど、どうでしょう。
「父親たちの星条旗」は"政治的に正しい"視点とテーマだったけど、それはあくまで「自国」の戦争についてであって、イーストウッドが「アメリカの息子として」自省的に、そして徹底的にクリティカルに描こうとしたからああなったんであって、「他国」の戦争についてはまた違った視点になりそうな予感。
全然クリティカルじゃなくて、日本に遠慮したかんじになっちゃうのではと。
結果、「父親たちの星条旗」はアメリカの「右の愛国者」に嫌がられる作品だけど、「硫黄島からの手紙」は日本の「右の愛国者」に喜ばれる作品になっちゃってるのではと。
ようするに、石原慎太郎さんの名前で売り出してる特攻隊映画みたいになっちゃうんじゃないかと(別に悪いとは言いませんけど。というか観てないし)。「暴露」じゃなくて「隠蔽」になっちゃうんじゃないかと。というか、「俺は、君のためにこそ死ににいく」って、「父親たちの星条旗」と真逆。
まあ実際、兵士たちの心の中なんてわからんし(本人たちにもわからないかもしれないし)、人それぞれだろうから(一人の中にもいろいろあってそれぞれが矛盾してる、なんて当たり前だろうし)、「国家のため」にしろ「郷土のため」にしろ「正義のため」にしろ「自由のため」にしろ「平和のため」にしろ「家族のため」にしろ「愛する人のため」にしろ「戦友のため」にしろ「仲間のため」にしろ・・・・・・・なんにしろ、勝手に一般化しちゃって安易に「答え」を出すのは個人的にはどうかと思うけど。(「<至上の価値>と<愛国の源泉>」「ねじ曲げられた桜」)
話飛んだけど、ようするに、イーストウッドは、日本人たちの戦争についてはクリティカルに描かないのではと。「硫黄島からの手紙」の主目的は、日本人たちはモンスターではないってことを描くことにあるのではと。アメリカ人に向けてのメッセージとしては"政治的に正しい"描写。
で、実際に、(日本での)映画の宣伝にはこういう表現が使われてる。↓
5日で終わるとされた戦いを、36日間、戦い抜いた男たち。世界中の誰よりも、強く、愛しく、誇らしく――私たちはいま、彼らと出会う。
(略)栗林のもと、一日でも長く祖国を守り抜こうと、死よりも辛い”出血持久戦”を戦い抜いた男たち――。彼らこそ、クリント・イーストウッドがどうしても描かなければならないと思った、日本の男たちだ。「私は、日本だけでなく世界中の人々に彼らがどんな人間であったかをぜひ知ってほしいのです」(略)
公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/
こういう映画をアメリカ人をはじめ旧連合国の人たちが観るのはとてもいいことだとは思う。「敵」であり「悪」である日本人にも愛情をいっぱい注いである作品に触れるのはとても大切。
が、そんな映画をいまさら観せられても「日本人としては」なんだかなーな予感。
ようするに、旧連合国の人たちにとっては"政治的に正しい"映画になってるのだろうけど、日本人にとってはそうじゃないのではと。旧連合国の人たちにとっては「国家と戦争のカラクリの暴露」になってたとしても、日本人にとってはそうじゃない作品になってるのではと。
アメリカ人にとっては「暴露」の機能を果たすものになったとしても、日本人にとっては「隠蔽」の機能を果たすものになってしまうのではと。
アメリカ人たちにとって「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が「暴露」であるように、日本人たちにとって「硫黄島からの手紙」が「暴露」になってたらそれはすごいと思う(いまさら暴露するものがあるかどうかわからんけど)。
「硫黄島からの手紙」がアメリカ人にとって"政治的に正しい"だけじゃなくて、日本人にとっても"政治的に正しい"作品になってるかどうか。
ようするに、安倍晋三さんが嫌がるような"政治的に正しい"作品になってるかどうか。安倍晋三さん周辺の人間が嫌がるような「暴露」になってるのかどうか。それとも、喜ぶような「隠蔽」の機能を果たしてしまうのか。
アメリカ合衆国については、アメリカの息子として「国家への冷徹な眼差し」で描写できたけど、戦争相手である日本国についてはどうか。
とはいっても、「硫黄島」で「国家と戦争と兵士のカラクリ」について「いまさら暴露」されちゃうものなんて日本国にはそもそもないか。「no one left bihind」とかそういう次元じゃなくて、最前線に取り残されて、おまけに「生きて虜囚の辱を受けず」状態だったのがバレバレだし。「隠蔽」はムリ?「玉砕」を描けば自然と「暴露」になる?ってそんなに甘くない?
ついでに、映画的につまらなくないかどうかはまた別の話。
ちなみに、宣伝コピーの「アメリカから見た硫黄島」「日本から見た硫黄島」ってのもわかりやすいんだけど、どうかと思う。
「硫黄島からの手紙」はふつーに素直に「日本から見た硫黄島」ってかんじになってるのだろうけど(ほんとうは「日本兵たちに対して優しい眼差しを持ったイーストウッドから見た硫黄島」だけど)、「父親からの星条旗」は「アメリカから見た硫黄島」というより「アメリカという国家とその戦争への冷徹な眼差しを持ったイーストウッドから見た硫黄島」というかんじ。この非対称性は意識されるべきかと。
「硫黄島からの手紙」も「日本国という国家とその戦争への冷徹な眼差しを持ったイーストウッドから見た硫黄島」になってたらまた話は違ってくるけど。
ごちゃごちゃいろいろ書いたけど難しい話で、同じようなことを表現変えて何度も書いてるだけで、思うことをわかりやすく表現できない自分にイラつくのだけど、こういう問題?ってあちこちにあると思う。たとえば、
●やたらとエスノセントリックでオリエンタリスティックな欧米人がいたとする。
●その人に対して、もうすこし視野を広げて他者に寛容になってくれよと少々文化相対主義的な議論をしてアジア等の非欧米社会の制度やら慣習について愛情を持って説明したとする。
●そしたら、非欧米の権威主義的体制の支配者たちがその議論を利用して「ほらみろ!そのとおり!」とかなんとか言って、自分たちの人権抑圧を正当化してしまったり。
「硫黄島からの手紙」の文脈にすると、
●「日本兵は極悪モンスター」的な概念を持った旧連合国の人がいたとする。
●その人に対して、いや愛すべき日本兵たちがたくさんいたから、と示す。
●そしたら、大日本帝国の戦争行為を正当化どころか称賛するような人たちがそれを利用して、「大日本帝国の戦争行為への誇り」と「悲惨な思いをした日本兵たちへの共感や愛情」を意図的にごっちゃにさせ、「カラクリを隠蔽」しようとしたり。おまけに、安倍晋三さんが「美しい国へ 2」で自分に都合の良い文脈でこの映画を利用して、「国家への忠誠と祖国への犠牲の美しさ」について語っちゃったり(さすがに露骨に本音で語るのは苦しいだろうけど)。
自国の所業への厳しい態度と他国の人々への優しい眼差しを持った言説が、自国の所業への厳しい態度を「自虐」と侮蔑し、他国の人々への優しい眼差しを「売国」と罵倒する人々によって利用されちゃう、みたいな。
いや、「硫黄島からの手紙」を観てないくせしてなんだけど。
こういう構図って、別に政治的な話だけじゃなくて、日常的によくあることだけど。自分に厳しく他人に優しい態度が、自分に甘く他人に厳しい人に利用されちゃったりすることはよくあること。
宣伝コピーや予告編は「釣り」で、↑でごちゃごちゃ書いたことを裏切ってほしいけどどうでしょう。
ちなみに、"政治的に正しい"って表現をしつこく使ったけど、これはある意味リベラルを揶揄するかんじの表現。リベラル的正しさへのちょっとした反発というか、リベラル的正しさの抑圧性みたいなものへの違和感みたいな。右からのリベラル批判(ムキになってのバックラッシュ)ではなく、左からの、ポストモダン的な視座からのリベラル揶揄的なかんじかと。
あと、石原慎太郎さんについて↑で微妙に批判的に触れたけど、この人はこういうことも産経新聞で書いてる。
八月が過ぎて靖国問題は旬が過ぎ沈静したかに見えるが、靖国が国際問題として蒸し返されるようになった切っ掛けのA級戦犯の合祀(ごうし)に関して、率直にいって私には納得しかねる点がある。というより私はA級戦犯の合祀には異議がある。
合祀の是非が論じられる時必ず、彼等を裁いた極東軍事法廷なるものの正当性が云々されるが、我々はそれにかまけて最も大切な問題を糊塗してしまったのではなかろうか。それはあの国際裁判とは別に、この国にあの多くの犠牲をもたらした戦争遂行の責任を、一体誰と誰が問われるべきなのかということが、棚上げされてしまったとしかいいようない。
私は毎年何度か靖国に参拝しているがその度、念頭から私なりに何人か、のあの戦争の明らかな責任者を外して合掌している。それはそうだろう、靖国が日本の興亡のために身を挺して努め戦って亡くなった功ある犠牲者を祭り鎮魂するための場であるなら、彼等を無下に死に追いやった科を受けるべき人間が鎮魂の対象とされるのは面妖な話である。死者の丁寧な鎮魂を民族の美風とするにしても、罪を問われるべき者たちの鎮魂は家族たちの仕事であって公に行われるべきものでありはしまい。
太平洋戦争に限っていえば、あの戦場における犠牲者の過半は餓死したという。そうした、兵站(へいたん)という戦争の原理を無視した戦を遂行した責任者の罪を一体誰が裁くべきなのか。それは国民自身に他なるまい。(以下略)
http://mudaimudai.exblog.jp/843606/
再出発日記さんがこんなこと書いてた。↓
日本国の総理大臣、安倍晋三氏が『美しい国へ』という本の中で、イーストウッド監督の前作『ミリオンダラーベイビー』を数ページに渡って賞賛している。
第三章『ナショナリズムとは何か』という章の中で、『「ミリオンダラーベイビー」が訴える帰属の意味』という小見出しをたてたあとの7~8ページだ。
ここで安倍氏は玄人っぽい映画評を展開する。『モ・クシュラ』というキーワードを説明しながらマギーとフランクの間には『アイルランドの帰属意識』が存在するというのだ。それは確かにそうだ。しかしクリント監督はそこから人間としての尊厳に話を展開するのだが、安倍氏の思ったことは違うようだ。
評論家松本健一の言葉を借りてこのように言って見せる。「中国人も韓国人もヒスパニックも、アメリカをすでに『理想の国』であると考えて移民したが、アイルランド系移民だけはアメリカを『理想の国』に作り上げようとした。」そしてさらに安倍氏は『地球市民』信用できない、といい、帰属意識を持つのは日本人なら日本しかありえないと展開し、「若者たちが自分の生まれ育った国を自然と愛する気持ちを持つようになるためには、教育の現場や地域で、まずは郷土愛をはぐくむこと必要だ。国に対する帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか。」と明らかに教育基本法の改悪の条文を意識しながら言う。そうやって『わが国の郷土を愛すること』が『愛国心』に繋がると、無理やりに展開するのだ。
おいおい、クリント・イーストウッド監督はそんなことを言いたいのではないよ。勘弁してほしい。この名作を汚さないでほしい。監督の気持ちは安倍首相の気持ちと正反対のところにある。その証拠にこの映画を見てほしい。
ここには、ネイティヴアメリカンを利用するだけ利用してぼろきれのように捨て、彼のアイデンティティをずたずたにしていく『国家』の姿が描かれている。アイラたちは白人社会の中で自分たちの民族の地位の向上のために、進んで従軍していく。しかしアイラは結局その国家に振り回され、おそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかり、野垂れ死にする。表面的な英雄扱いと、『このインディアンめが』と悪態をつけられる立場の矛盾。人間としての尊厳を築こうとしても、それを壊すのは『愛国心』を押し付ける『国家』であったのだ。
『父親たちの星条旗』と教育基本法
http://plaza.rakuten.co.jp/KUMA050422/diary/200611070000/
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ダライ・ラマvs宮崎あおい 「ただ君」も
http://mudaimudai.exblog.jp/4629154/
2006-11-27T16:36:00+09:00
2006-11-27T18:52:19+09:00
2006-11-27T16:36:17+09:00
mudaidesu
映画
ひょんなことからこんなネタを教えてもらった。↓
ダライ・ラマにインタビューしたり、普通の女優はしないっすよね。笑
で、ダライ・ラマにインタビュー????なんだそれは???ってかんじだったんで検索してみたら。↓
なんかすごい雑誌ですな。最近はじまった講談社の雑誌のようですが。
右上に「独占!!『ダライ・ラマ』って、なんだ? 宮崎あおい、大キングに会う。読本」ってのが遠慮がちに。
まあそれはおいておいて、宮崎あおいはなんかブレークしちゃったかんじがするんで、もう書かなくていいや、と思ってたんだけど、「宮崎あおい本」つながり?ってことで。
で、ダライ・ラマさんですが、ダライ・ラマさんについては細かいこと全然知りませんが、演説会に行ったことがある。でも、大爆睡。政治的な話をするのかと思いきや、そういうのまったくナシで、ひたすらじいさんが道徳というか人の道というかなんというか、そういうのをひたすら語る、みたいなかんじだったんで。まあ仏教のシロウト向け説法みたいなもんかと。
野外で、天気もやたらと良かったんで、寝っころがってグーグーしてしまった。一緒に行ったアメリカ人はちゃんと真面目に聴いてたようで、「あんたはアジア人のくせしてなってない」みたいなこと言われてしまった。「どういう話か要約して教えて」と言ったら、「いい話。いい話は要約なんてできない」とかわけわからんこと言われた。
あと、フリーダムチベット&ノーバイオレンスの某音楽イベントに行ったことあります。もちろん動機のほとんどは音楽目立てでしたが。そのとき食ったチベット料理が忘れられません。すごく美味いんだけど、ホットソース(辛ソース)が殺人的。ほんのちょっとで一日中口の周りがヒリヒリしてた。というか、チベット語って、音がコリアンっぽいと思った。
って、そんなことはどうでもよくて、「ダライ・ラマさんインタビューby宮崎あおい」についてだけど、まあたいしたことないといえばたいしたことない。普通に宮崎が質問して、じいさんが答える。まあ3ページ程度なんでしょうがないけど。
いや、とってもいい話してんだけど、あまりに短すぎというか、まとめた人の力量の問題なのか、それともまとめた人は良く頑張った部類なのかよくわからんけど、なんかアッサリしすぎというかそんなかんじなんだけどゴチャゴチャしてたり。僕が何言ってるか意味不明だろうけど。読む人いないだろうけど読めばわかる。と思う。
で、基本的には宮崎がじいさんに「世界の<たりないピース(断片&平和)>のためにどうしたもんでしょうかねえ?」みたいなことを話したり聞いたりなんだけど、おもしろかったのはこんなとこ、というか調子。↓
宮崎
好きな本はどうでしょう?今まで影響を受けたものがあれば・・・・。
ダライ
やはり、チベットの教典でしょうか。後は『ナショナル・ジオグラフィック』ですとか、世界の歴史に関するものや天文学についての本は読みました。それからマルクスとレーニンの本は読み、特にマルクスの経済理論についての本は好きでした。ただ、彼の社会主義経済論については尊重していますが、一党独裁の政治は好きではないです。「自らが自らを創り出す」という仏教の教えがあります。神があなたを創るのではなく、他に頼らず、自らが自分を創るのです。ただ祈っていればいいわけではなく、私たち自身が具体的な労働をするこによって未来を切り開いていくのです。資本主義か社会主義かと問われれば私は社会主義ですし、そういう意味でマルクスの著書をいくつか読みました。ですが、今一度私が強調したいことは、物に恵まれたアメリカやヨーロッパ、加えて中国や日本にもいる裕福な家庭でも、物質的な不安がなくとも、心に空虚を抱えている人がたくさんいるという事実。「内なる平和」というのは、温かい心を持つことによって実現できますし、これは分析・研究によって検証されているもので、現在、大きな関心を寄せていることです。私は精神学者や脳学者などさまざまな研究者たちと話をする場を設けているのですが、彼らはネガティブな精神が肉体にも影響を与えるという研究結果を出しています。逆に言えば慈悲の心、温かい心、思いやりが肉体にとてもいい作用をもたらすそうで、これは「サイコソマティック(psychosomatic)」という、宗教とは関係のない科学的に実証されている一般的な論理、考え方です。
ダライ・ラマさんがマルクス好きでどっちかってなら社会主義ってのは、なんかわかるけど、それはともかくアッサリしてるようなゴチャゴチャしてるようななんだか不思議なかんじでしょう。ダライ・ラマさんが不思議なのか、まとめ方が不思議なのかはわからんけど。
というか、このインタビュー企画のトップページに「なぜにダライ・ラマさんの話を聞くの?」について書いてあるのだけど、こんなかんじ。↓
身の回りがどんどん洗練され、便利な世の中に進化している。その反面、当たり前で人間臭い質問をぶつける相手がいなくなった、と感じるのも気のせいではないだろう。便利になるのは悪いことじゃない。洗練された口説き文句であのコの心も掴みたい。だけど時には昔ながらの頑固親父に一喝されるか、経験豊富なおじいちゃんに諭されることが必要だったりする。じゃあ、どうせ聞くなら世界で一番、懐の深そうなあの人に聞きたい!ダライ・ラマ法王猊下14世。世界代表"KING"の、いつも絶やさない笑顔の秘密。金銭云々とは別次元の豊かさに、僕たちに勇気をくれるエッセンスが潜んでいた。
悩める日本男子がいるのなら、世界の大キングに話を聞こう!
いやほんと不思議なノリの雑誌です。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
http://www.tibethouse.jp/home.html
ダライ・ラマさんのスタンスがよくわかります。↓
チベット民族蜂起47周年におけるダライ・ラマ法王の声明 2006年3月10日
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/uprising47th.html
インタビュー記事↓
ダライ・ラマ:胡政権は現実的 訪中実現を楽観視
インドに亡命中のチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世が2日午前、訪問中の広島市内で毎日新聞などと会見し、「最近の中国は胡錦濤政権下で民主化が進み、政策が現実的になった」と評価した。自らのチベット帰還の可能性について「私たちは独立を望んでおらず、外交と国防以外の自治を求める現実的な方策を主張しており、(帰還を)楽観している」と述べた。
ダライ・ラマは胡政権の進める調和社会政策について「地方の草の根レベルで民主化が進んでいる」と述べた。だが、チベット自治区の現状に関しては「僧侶は政治学習を強制され、依然、宗教や報道の自由が厳しく制約されている」と人権抑圧を批判した。今年7月の青蔵鉄道のラサ開通についても「中国人(漢族)が大勢来て危険になると喫茶店で話しただけでチベット族が拘束されたとの情報がある」と述べた。情報の真偽は不明。
ダライ・ラマのチベット帰還などを協議する亡命政府と中国政府との直接交渉は02年9月に再開され、今年2月に北京で5回目の協議が開かれた。だが、中国側にはダライ・ラマがチベット独立を望んでいるのではないかとの警戒があって進展せず、第6回の協議開催を待っている状況だという。ダライ・ラマは「胡政権は用心深い。当局には私を敵視する見方もある。私は政治的地位は何ら望んでいない」と述べた。【吉富裕倫】
毎日新聞 2006年11月2日 12時00分 (最終更新時間 11月2日 12時21分)
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/afro-ocea/news/20061102k0000e030060000c.html
ついでだから、「ただ、君を愛してる」について書くけど、書きたいことあんまない。つか、宮崎あおいに30回くらいケリ入れたくなった。やっぱ、ロリロリもブリブリもだめ。演じてる本人はけっこう楽しいんだろうけど。
ryoddaさんは相変わらずすさまじい文才発揮しておもしろいこと書いてる。↓
http://blog.goo.ne.jp/ryodda/e/f38a9043ba99dd3fcb08066a60ee9790
ついでにこっちもすさまじい。↓
http://blog.goo.ne.jp/ryodda/e/044d8769a67573fe8930b0c4ac60f6fd
この映画について、僕にはとてもこんなポジティブな描写はできないし、
中盤までただひたすら見ていて恥ずかしいシーンのオンパレードであり、しかしそれもまた現在の宮崎あおいの記録である。耐え忍ぶのみ。
みたいな修行僧っぷりも発揮できない僕だけど、「ジャンル自体が宮崎あおい」「宮崎あおいだからオッケー」ってのはよくわかる。文句言いながらも、ふつーに楽しく観れたのはやはり「宮崎あおいだから」かと。
それにしても、なんなんだこの物語は。安易すぎって表現は安易すぎなんだけど他になんともいいようがないくらい安易すぎで安易すぎで安易すぎで安易すぎて安易すぎてたまらなく安易すぎ・・・・
安易すぎてツボに入ったところはたくさんあったんだけど、いちいち書くのがアホくさいんでなんも書かない。
つか人がどんな恋愛観もってようとどうでもいいんだけど、「文学」としてこれでいいのかと。いや、この人の小説読んでないくせして言うのもなんだけど、マジでこれでいいのかと。
文学を進歩史観的に考えたことはあまりないけど、マジで「退化」とか思っちゃったよ。アメーバくんかと。いや、この物語だけじゃなくて最近の日本の純愛物語の多くに当てはまる問題だと思うんだけど(って別に全然詳しくないけど)。
映画の方は「物語」に比べればかなりマシ。
おそれていたけど、予想に反してたいしてしつこくないんでふつーにさらっと観れた。
てか、関係ないけど、ちょうどこんなの見つけたんだけど↓。6月30日の記事だけど。
The enemy within
・・・・He(村上春樹) gazes out over the rooftops of Tokyo’s chichi Ayoama suburb, speaking in low, urgent tones about Japan’s rightward lurch. “I am worrying about my country,” says the 57-year-old writer, widely believed to be Japan’s literary Nobel laureate-in-waiting. “I feel I have a responsibility as a novelist to do something.”
He is particularly concerned about Tokyo’s popular governor, the novelist Shintaro Ishihara. “Ishihara is a very dangerous man. He is an agitator. He hates China.” As Murakami discusses plans to make a public statement opposing Ishihara, it’s hard to recognise the writer often derided by the Tokyo literati as an apathetic pop-artist - a threat to the political engagement of Japanese fiction. Yet Murakami always distanced himself from the Japanese tradition of the writer as social admonisher: “I thought of myself as just a fiction writer.”・・・・・
http://www.ft.com/cms/s/891064b0-073b-11db-9067-0000779e2340.html
村上春樹が、日本の「いわゆる右傾化」について、「私は自分の国を心配してる」と言ってたらしい。「小説家として何かする責任があると感じてる」と。石原慎太郎さんなんか「危ない」と。「煽動家」だと。いままで「社会的になんかする」日本の作家の伝統から距離をとってきた村上がこんなこと言ってると。
ガーディアンにも記事があった。↓
Murakami hits out at Japanese nationalism
http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,,1811674,00.html
村上春樹繋がりで、どうせなら「直子」を宮崎あおいで「ノルウェーの森」やった方がぜったいいい。「緑」でもいい。
ところで、ロリーは全然ダメなんだけど、宮崎あおいの「富江 禁断の果実 最終章」のロリーロリーはえろいと思った。夕方の野外でのレズっ気シーンはすんごい雰囲気だった。えろすぎ。
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エグイ・コマーシャル
http://mudaimudai.exblog.jp/4449871/
2006-10-30T00:54:00+09:00
2006-10-30T01:03:19+09:00
2006-10-30T00:54:38+09:00
mudaidesu
世界
今朝の「サンデーモーニング」で、共和党の選挙CMがビン・ラディンを使ってるという話をやってたという話を聞いた。で、その映像を見つけた。↓
http://www.youtube.com/watch?v=-X-fDqQ-Xcc
このCMを「ビン・ラディンのやってることの真似だろ」と厳しく批判するMSNBCの番組。↓
http://www.youtube.com/watch?v=F5L8hfrUWig
これも共和党応援の選挙CM。単純だけどエグイ。↓
http://www.youtube.com/watch?v=oeywxIhdnuk
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フラガールと○ん○伝説
http://mudaimudai.exblog.jp/4404895/
2006-10-23T12:24:00+09:00
2006-10-26T01:27:35+09:00
2006-10-23T15:54:11+09:00
mudaidesu
映画
なんだかものすごい勢いで評判のいい「フラガール」だけどねえ。監督の李相日は、「69」がイマイチだったしねえ。観てきたけどねえ(一ヶ月近く前だけど)。正直、この手のプロットの映画はもうおなかいっぱいだしねえ。「ハワイアンセンター?あー、ガキんちょのとき、友だちが行ってきたって話してたなあ。」みたいな。
ってかんじだったんだけど、あららららら。
ふつーに傑作じゃん。
「フラガール」公式サイト
最後だけはちょっと盛り上げて、あとはおバカに徹するのかと思っていたら、最初から最後まで王道ってかんじだったような。おすぎ曰く、「フラガールは最近の邦画の中では出色の出来栄えの映画です」。
ただのありがちな「みんなでがんばった話」を楽しくせつなく描いてるだけじゃなくて、時代をちゃんと考察してる作品だし(この部分が予想外だった)。んで、ただの「another 昭和のにおい映画」or「another みんなでがんばった映画」じゃなくて、"THE"といってもいいかも。
ダメだと思うところがまったくなかった(ムリヤリあげればしずちゃんの泣きのシーンだけど)。すべてにおいて完璧すぎて、それが逆にダメというか、すばらしい傑作ではあるけど傑作どまりになっちゃった、みたいな。って意味不明?
個人的には、こういう直球で王道の映画も好きなんだけど、心じゃなくて脳ミソがグラグラするようなのや、破綻or破綻寸前?だけどすげー、みたいなのを求めてるってのがあるからかな。「あやうい刺激」みたいのを映画に期待してるのかな。「不快だけど心地よい」とか。「フラガール」はほとんどの人に好かれる作品だろうけど(僕も大好きだし)、あまりに「まともすぎ」かなと。
で、こちら↓の感想はおすすめ。てか、ryoddaさん、あいかわらずすばらしい。
過剰な人情@フラガール
評価は正反対だけど実はけっこう同意なんだな。僕としては、「まともすぎ」と表現したけど。
ただ、僕的には、「フラガール」は「過剰」だとは思わなかったし、しつこいとは思わなかった。さっぱり描けてたとは思う。なんでもかんでもうざいと思っちゃう僕だけど、しつこくてうざっ、ってかんじはまったくなかった。
で、「フラガール」は、来年の米アカデミー賞での日本代表作品になったようで(ノミネートされるかはわからないけど)。海外での興行成績もかなり期待できるかも。というか、アカデミー賞はともかく、かなり売れそう。
てか、朝一で観たんだけど、おばあちゃんばっかで、この映画、おばあちゃんたちのツボに入りまくってた。おばあちゃんたち、一つ一つの小ネタに対する反応がいいいい。
で、俳優だけど、蒼井優も当然すばらしいんだけど、松雪泰子がすごくよかった。最後のころはみょーに素直な人になっちゃっててびみょう(ちょっとうざかったかも(笑))だったけど(ストーリー上しゃーないんだけど)、それまでがすばらしい、というかナイスキャラもナイスに演じてた。
おすぎ曰く、
「松雪泰子がこんなスゴイ女優だったとは!」
「長い間"女優"としての存在感を感じていなかった人が突然一本の映画で"こんなスゴイ人だったんだぁ"と思わせてくれる事があります」
まあ、僕としては、「そこまでスゴイか?」ってかんじだけど、かなり良かったのはたしか。というか、この映画に期待してなかった理由の一つが松雪さんだったから。観る前は、「松雪~?大丈夫かよ?みてらんねーんじゃねーのー?」みたいなノリだった。ごめんなさい。松雪さんがいなかったらこの映画の魅力7割減だったかも。
男湯に乗り込むところはもちろんかっこいいんだけど、個人的には、早苗(徳永えり)との別れのシーンがかなりイケてたと思う。他のみんなが「感動的でさわやかな(少々うざい(笑))」別れのあいさつしてる後ろで、「こういうベタベタしたのムリ」ってかんじで座って石投げてたり、「私はいいって。いい。いい。」ってかんじで手を振るところなんてすんごい良かった。完璧。そのシーンのその後の展開もベタだけど完璧。
細かい話はおいておいて(というか、おすすめの映画です)、この映画でなにが辛かったって、最初から最後まで、脳裏にアレが浮かんでたこと。アレってアレですよ。「69」のアレ。校長室(だっけ?)でのアレ。
「69」自体はたいしたことなかったけど、あのシーンは僕の中では伝説の域に達してる。
「69」を観たときも朝一だったんで(たぶん)、観客はお年寄りばっかで、あまりにアレで破壊的なシーンなんで、一緒に観てた人もまわりの皆さんが気になったみたいで、「きゃははは、おじいちゃんおばあちゃん大丈夫?てかサイコー。」みたいな。
で、「フラガール」の最中もずっとあのレジェンダリーなシーンが頭から離れなかったんですわ。
おげれつなシーンが大好きなんで。
「フラガール」でも、ひそかになんか期待してたんだけど。
一応、「69」のサイトも。
つか、プロデューサーの李鳳宇については前にちょっと書いたけど、シネカノンすごいじゃん。去年は「パッチギ!」、今年は「フラガール」。日本映画を支えてる?
てか、ハワイアンセンターいきてー。
てか、この映画のこと知ったときは、↑では書かなかったけど、「ハワイアンセンター?まだつぶれてねーの?」なんて、そこに生きる人たちについての想像力ゼロのヒドイこと思っちゃった。ほんとヒドイ奴ですね。そういう奴こそ、この映画を観るべきだったね。
って名前変わったのね。
http://www.hawaiians.co.jp/
1980年代に入ると、レジャーの多様化や施設の陳腐化などにより集客が鈍化。やがては、海外航空運賃の激安競争の煽りを受け、本当のハワイに行った方が安いとまで言われた。 1980年代には、アイドル歌手や演歌歌手が多く営業に訪れた。特にアイドル歌手には、「引退寸前の歌手が行く公演先」として忌避されがちであったが、多くの「追っかけ」と呼ばれるファンが訪れたという。
1990年、総事業費50億円をかけ「スプリングパーク」をオープン、長年親しまれてきた一方、田舎臭いなどという声のあった名称「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に発展的変更を行い、イメージチェンジを図る。温泉を利用した5つのテーマパーク、ホテル、ゴルフ場などで構成される。経営母体は常磐興産。前身の常磐ハワイアンセンターのコンセプトであった「ハワイ」「南国」に後にブームとなる「温泉」を加えたこと、東京方面からの無料バスによる送迎サービスを行うなどの集客努力などが功を奏し、現在では年間140万人を越える集客まで回復、多くのリピーターも獲得し、他のリゾート施設の苦戦を尻目に健闘を続けており、長寿リゾートテーマパークとして多くの人々に親しまれている。2005年度には「常磐ハワイアンセンター」時代の1970年(昭和45)以来の年間利用者数150万人の大台を達成した。
ウィキぺディア
ウィキによると、「イメチェン」しちゃったのね。この映画観たら、昔の「田舎臭い」方がいいじゃん、と勝手に無責任に思っちゃうけど。まあ、商売うまくいってるみたいなんでほっとしたけど。
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拷問。
http://mudaimudai.exblog.jp/4404741/
2006-10-23T12:01:00+09:00
2006-10-24T23:01:47+09:00
2006-10-23T15:20:15+09:00
mudaidesu
世界
について。
フジテレビでやってたアメリカのドラマ「24 シーズン4」見終わった。「24」については去年かなり好意的?に書いた。好意的というより、ふつーにおもしれーと。
で、「シーズン4」だけど、かなり質が落ちたような気がする。正直、つまらんかった。まあ飽きてきたのかもしれないけど。
で、「シーズン4」の特徴はやっぱ「拷問しまくり&拷問正当化しまくり」かと。拷問を許さない「アムネスティ・グローバル」(←ベタすぎ)とやらが「うざったいテロリストのお仲間」みたいに描かれてたし。
おいおい、アメリカは自由と人権の伝道師のはずじゃないのかと、アムネスティは同志じゃないのかと(アメリカに関わること以外ではだけど)、というか、アメリカ政府はともかく、視聴者の一般アメリカ人はアムネティ側じゃなきゃダメじゃん、アムネティなんて理念的にはめちゃくちゃ「アメリカン」なかんじじゃん(イギリス人がはじめたんだけど)、みたいなヤボなことは思わなかったけど。
まあとにかく、前作までとは違ってたような。前作までも一応「拷問アリ」だったような気がするけど(あんま憶えてない)、「シーズン4」ほどあからさまに正当化はしてなかったような。「シーズン4」は、なんの迷いもなくあっけらかんと拷問超オッケーと突っ走ってたような。
「全方位ドラマの八方美人戦略」はどうなっちゃったんでしょうか。
作られた時期、ようするに世論のノリ次第なのかと思いつつも、時間的には9・11から遠ざかっていってるわけなんで、んー。というより、9・11から遠ざかる=時間が経つ→拷問に対する嫌悪感がペンディングされてる状態が惰性で定着とか?
ちなみに、去年、こんな記事についてちょっと触れた。
テロと拷問
もちろん、↑で書いたように、エンターテイメント作品では、刑事等の公権力がめちゃくちゃってのは普通なんだけど。
で、エコノミストのサイト見てたらこんな記事があった。というか、いろいろ書くのめんどくさいから、記事にあった画像をスクリーンショットでお茶をにごす。BBCのも。というか、BBCとアムネスティの調査っぽい。
↑の画像があった記事等、これに関するのをいくつか。↓
Saying no to torture Why some are willing to see it used economist
One-third support 'some torture' bbc
Heated debate over use of torture bbc
Torture by degrees guardian
ついでにこれも。アメリカの特別軍事法廷設置法について。↓
LATのヒラリー批判コラム 「24」の見すぎじゃね?と。
Hillary Hits Bottom
赤十字の批判・懸念・見解。↓
Developments in US policy and legislation towards detainees: the ICRC position
ICRC concerned over whether new U.S. terror law complies with Geneva Conventions
おまけに、去年リンクした記事も。↓
The Debate Over Torture
Torture's Terrible Toll by John McCain
How Terror led America toward Torture
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米朝直接交渉とかネオコンさんとか。
http://mudaimudai.exblog.jp/4404332/
2006-10-23T10:46:00+09:00
2006-10-24T11:28:28+09:00
2006-10-23T13:46:50+09:00
mudaidesu
世界
あたりについてサクサクっと。
前のエントリーで
日米韓の一部の勢力以外のほとんどは、アメリカは北朝鮮と話して話つけるべき、ってノリだったようだけど。
と書いたけど、共和党の偉い上院議員二人が、「米朝直接交渉は避けられない」「直接交渉をオプションにいれるべき」みたいなことを堂々とテレビで言ってるってのがニュースになってるようで。↓
Senior Republicans join Democrats in calls for direct U.S.-North Korean talks
ついでに、前のエントリーで
人から聞いた話だけど(この人もどっかから聞いた)、アメリカでブッシュさんと話した際に、小泉さんも「北朝鮮と直接話したらどうだ?」とブッシュさんに提案したらしいし。てか、このニュースあった?
と書いたけど、この記事にこんな記述も。↓
Sen. Joseph Biden, the foreign relations panel's top Democrat, said Japan, Russia, China and South Korea ? the other members of the six-nation talks ? have each privately urged the United States to allow direct talks with Pyongyang.
民主党の偉い議員によると、日本もロシアも中国も韓国も、北朝鮮と直接交渉したらどうかとアメリカに対して非公式に促してたと。
てか、この番組のトランスクリプト。↓
Transcript: Top Senators Discuss North Korea, Iran on 'FOX News Sunday'
まあ、ブッシュ政権が実際にやるとは思えないけど、どうなんでしょうねえ。
というか、核実験前ならともかく、周辺国の反対を無視してミサイル実験やって核実験やってもう一回核実験やるかどうかって状況の北朝鮮に対して、北朝鮮が要求してきたことにそのまま応えるのはさすがにヤバイような。
それじゃあ、核実験やった方が得だったということになってしまう。あまりよろしくない前例になっちゃうし。北朝鮮核問題は、瀕死の核不拡散体制をどう維持するかって問題だから、波及効果も考えないとなんで。
だから、もっとはやく、ここまで北朝鮮が来る前に、直接交渉なりなんなりやる決断しとくべきだったのではと。
でもだからといって、このままズルズルもよろしくないし、とにかく難しいですなあ。前から「難しい」連発してるけどほんと難しい。個人的には、六カ国の枠組みはせっかくだから残したいし。
ついでに、アーミテージさんも、核実験前にだけど、直接交渉やるべきと言ってた。↓
U.S. Should Hold One-on-One Talks With N. Korea, Armitage Says
ついでに、前のエントリーのコメント欄で書いたの転載しとく↓。ちょっと古いネタになっちゃったけど。
アメリカとしては「核つき北朝鮮オッケー」なのかなーと。ネオコンさんたち(影響力落ちまくりのようですが)の議論(ブラフとしてのネタも含む)でさえ、「戦争しろ(=体制崩壊させろ)」ってのがないような気がするんですよね。(というか、やっぱり、イランが最大の懸念なんでしょうか。)
一番極端(たぶん)な人(ネオコンさん)が言ってるのが、「北朝鮮にここまでやらせてしまった中国を罰するため、日本・韓国・オーストラリア・ニュージーランド・シンガポールをNATOに入れて(「NATOアジア拡大論」自体は他の人も言ってます)、台湾もオブザーバーにしちゃえ。ついでに、日本に核武装させちゃえ。」で、「核つき北朝鮮」自体はしょうがない、なのかなと。
「中国を罰する」というのも、中国さん、北朝鮮を「これ以上」暴走させないでってことで、他力本願。もともと(イラク戦争泥沼後?)ブッシュ政権も共和党系専門家も北朝鮮問題は中国にお願いしますってかんじだったようですけど。
「イスラエルはレバノンをボコボコにしちゃっていいです」と言ってたネオコンさんの人も、「『核がアメリカか同盟国で爆発したら、それを北朝鮮からの攻撃と見なし、アメリカは北朝鮮に気合いの入った報復をする』と大統領は宣言すべき」程度(ここ→http://mudaimudai.exblog.jp/3845599/に出てきたじーちゃんと同じですね)で、結局、保有はともかく商売したら許さんぞってことなのかなと。
↑の一つ目は↓について。
Mutually assured disruption by David Frum
David Frumさんはネオコン系シンクタンク(ここのコメント欄でちょっと出た)にいるネオコンさん。ブッシュさんの元スピーチライター。「悪の枢軸」って表現でこの人は有名。ただ、この人がどの程度影響力があるかは微妙。というか、ネオコンさん自体、影響力はもうボロボロなのではと。
この人の一番最近の本はリチャード・パールさん(暗黒のプリンス(笑))との共著で、イラク戦争を弁護し、イランとシリアのレジームチェンジを訴えてるとか。本のタイトルが「An End to Evil: How to Win the War on Terror 」って・・・。イラク戦争推進した人たちによる、悪とテロ戦争に勝利するための「ハウツー本」ってすごいね。まあ、「濃いメンツ」の一員っぽい。
二つ目は↓について。
What Will Stop North Korea by Charles Krauthammer
↑で書いたように、内容は「第二次朝鮮戦争勃発2」に出てきた人みたいなかんじ。
ついでだからカーター元大統領の文章も。↓
Solving the Korean stalemate
ネオコンさんとKrauthammerさんついでに、コレも↓。
フランシス・フクヤマのネオコン論
After Neoconservatism
名前は出してないけど↑のkrauthammerさんへの皮肉っぽい部分も。ちょっとした二人のバトルが前にあったようだし。
追記。てか、ガーンだよ。せっかく書いたのに。日本でもちょうど記事出たよ。
北朝鮮との直接対話、米議会で要求広がる
【ワシントン=小竹洋之】米共和・民主両党の有力上院議員は22日、北朝鮮の核問題を外交的に解決するため、米朝両国による直接対話が必要だとの認識を相次ぎ表明した。米政府は北朝鮮との二国間協議には応じない姿勢を堅持しているが、事態の早期収拾を求める米議会の圧力が強まりそうだ。
共和党のルーガー上院外交委員長は同日、米FOXテレビに出演し「北朝鮮の核問題を外交的に解決しようと考えるなら、米朝両国の直接対話が避けられない」と指摘。中国が議長を務める6カ国協議の再開に期待する一方で、二国間協議の可能性もできるだけ早く探るべきだと述べた。
同党のスペクター上院司法委員長も米CNNテレビの番組で「北朝鮮の核問題は深刻だ。直接対話を含むあらゆる選択肢を検討する必要がある」と語った。 (12:32)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061023AT2M2300E23102006.html
金総書記と直接会談を 米大統領に共和党有力者
【ワシントン22日共同】米与党共和党の有力者、ルーガー上院外交委員長は22日、北朝鮮の核問題を解決するため米朝直接協議の必要性を主張、米大統領が金正日総書記と会談し、体制転換を行う意思がないと表明するのが望ましいとの見解を示した。FOXテレビで語った。
同時出演した民主党のバイデン、レビン両上院議員も「中国や韓国が米朝協議を望んでいる」とし、委員長に同調した。
来月の中間選挙では野党民主党が下院で多数派を占める可能性が強まる中、核実験後の緊張激化を受け、民主党や共和党穏健派からはブッシュ政権に対北朝鮮政策の見直しを求める声が強まりそうだ。
バイデン、レビン両氏は、民主党が多数派を取った場合、それぞれ外交、軍事各委員長の要職に就任する立場にある。
ルーガー委員長は「いつになるかは分からないが、『偉大なる指導者』と対話する米大統領が出るだろう」と述べ、大統領自らが「われわれは体制転換に関与しない」と言明することで問題を解決できると指摘した。(2006年10月23日 09時55分)
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006102301000108.html
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