カテゴリ:本( 38 )
西洋哲学史要  哲学入門

西洋哲学史要 (1901年) 

(著・1901)波多野精一 
(再話・2001)牧野紀之


哲学入門 (1911年)

バートランド・ラッセル

More
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-25 18:39 |
家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 2



http://mudaimudai.exblog.jp/943494/

のつづき



マルクス主義フェミニズムの、「実践的帰結」は、第一に社会主義陣営に対しては、女性の自律的な運動を認めよとう要求であり、第二にフェミニズムに対しては、フェミニスト革命は、たんに心理主義や文化闘争でなく、「家父長制の物質的基盤」をくつがえす実態的なものでなければならない、という主張である。



私が「家事労働」を「女が他者生命の生産・再生産のためにする労働」に限定するのは、次のような理由である。たとえば単身の女が、自分自身の生命再生産のために行なう活動を家事労働とは呼ばない。

食事や睡眠を家事労働と呼ばないように、自己生命の生産・再生産一般は「家事労働」ではない。

女が「他者生命生産・再生産」のための活動を引き受けたとたん、女は市場内で二流の労働力に転落する。

More
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-15 01:36 |
家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平
家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平
上野千鶴子 1990

これ、おもしろすぎ。いや~、フェミニズムって容赦しないですね~。キレキレですね。
ばったばったと切りまくり。解体しまくり、暴露しまくり。
おっさんたちがビビるのがよくわかる。たしかに脅威だ。

「ナショナリズムとジェンダー」とともに名著。



解放の思想は解放の理論を必要とする。誰が、何から、いかに、解放されたいのかを知らなければ、現状に対する不満や怒りのエネルギーは、方向を見失う。

女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論・・・3つ

1社会主義婦人解放論
2ラディカル・フェミニズム
3マルクス主義フェミニズム

More
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-15 00:43 |
見沢知廉が死んだ。自殺?


愚痴っていたら、見沢知廉が死んでいた。

右翼、ですよね?
一応、最後まで。



作家見沢知廉氏が飛び降り自殺 

神奈川県警によると、天皇制がテーマの「天皇ごっこ」や、ベストセラー「囚人狂時代」などの小説で知られる作家見沢知廉(みさわ・ちれん、本名高橋哲央=たかはし・てつお)氏が7日午後、横浜市の自宅マンション8階から飛び降り、死亡した。自殺とみられる。46歳。東京都出身。自宅は横浜市戸塚区。

葬儀は密葬で営む。喪主は母京子(きょうこ)さん。戸塚署によると、遺書は見つかっていない。同署は動機を調べている。

中央大中途除籍。新左翼の活動家として大学在学中に成田闘争に参加。右翼に転向後、新右翼内の内ゲバ殺人事件などで12年間収監される。獄中で執筆し、天皇恩赦闘争、左翼テロなどをテーマとした「天皇ごっこ」が94年、新日本文学賞佳作を受賞した。

主な作品に「母と息子の囚人狂時代」「調律の帝国」「日本を撃て」などがある。



見沢知廉公式サイト

見沢知廉公式サイト 新・写真館


なかなか個性的なメンツと一緒に写真とってましたね。
土井たか子、柳美里、アラーキー、などなど。





『天皇ごっこ』


宮台真司が文庫本解説で激賞してました。
宮台が天皇を語るとき、必ずこの小説の話をします。

情念が伝わってくるような小説でした。
何度も鳥肌が立ちました。



さようなら。
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-13 09:34 |
天皇の戦争責任
天皇の戦争責任
加藤典洋 橋爪大三郎 竹田青嗣


加藤ーーーあの人は何を考えていたのだろう?

橋爪の「天皇に責任なし!」論
天皇に権限なかった。それでも、憲法の枠内でよくやった。選択して天皇になったわけじゃないので、責任を問えない。天皇に責任を押し付けることによって、他の誰かの責任が軽くなるわけではない。天皇に責任をかぶせれば、そのぶん、誰かの責任が軽くなるという考え方のような気がする。

More
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-05 23:27 |
自由からの逃走
自由からの逃走
エーリッヒ・フロム


『本能によって決定される行動が、ある程度までなくなるとき、すなわち、自然への適応がその強制的な性格を失うとき、また行動様式がもはや遺伝的なメカニズムによって固定されなくなるとき、人間存在ははじまる。いいかえれば、「人間存在と自由とは、その発端から離すことはできない。ここでいう自由とは「・・・への自由」という積極的な意味ではなく、「・・・からの自由」という消極的な意味のものである。すなわち、行為が本能的に決定されることからの自由である。

More
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-04 23:57 |
突破者
突破者
宮崎学


暴対法
問題がある、人権侵害、なのに、人権派ば世論にびびって多数派になびいてしまう。


「だれもが世論や世間の反応に病的なほどに敏感になっていることに驚いた」。世間の感性が、マスメディアを経由することによって一気に増幅されて「世論」と化す。そして、メディアと一体となった「世間」にだれもが呪縛され、逆らえない。そんな窮屈な事態になっているように思えた潔癖、排他的ーーーー80年代を堺にして、市民社会と世論は急速に排他的になったように思える。生活保守主義の蔓延か。

「多数派形成ゲーム」---戦後民主主義の行き着く末か。


暴対法の主旨は裁くことではない。社会の異物として葬り去ること、問答無用に排除することである。「ヤクザを生む環境」を一顧だにすることなく全否定するような考え

それに、この法は省益追及のため。ヤクザに変わって、警察がパチンコ・風俗を支配。

そもそも、権力側が最も重視するのは企業社会であり、市民社会は二の次、三の次。これは明治維新以来の権力の一貫した姿勢。
[PR]
by mudaidesu | 2005-09-02 22:53 |
在日 姜 尚中
在日 
在日 ふたつの「祖国」への思い
姜 尚中

テレビなどのメディアに出る意図
「在日」が日本について語ってもいいじゃないか。
朝鮮半島問題、在日問題以外について語っていいじゃないか。

しかし、そっちに時間・エネルギーをとられ、研究に支障をきたすようになった、
しかし、それでもやる。自分は「知識人」じゃない。社会的に発言するパブリック・コメンテーターの役割を引き受けていかなければならないと自分に言い聞かせてきた。

サイードに影響された。パレスチナ人でありながら。
サルトルやチョムスキーのように、いわゆる欧米の典型的な知識人でなく、

サイードは「在日」と同じように自分自身が幾重にも引き裂かれている存在だ。

サイードは「知識人とは何か」で「知識人とはアマチュアであると」。アマチュアでいいと。だからサイードを通じて、メディアで発言する根拠が持てたような気がした。自分がエキスパートとして知らなくても発言していいのだと。知らなくても、発言しなければいけないときがあると。

インサイダーでありアウトサイダー、また逆も、

サイードはフロイトを引き合いにだす。フロイトはアイデンティティを通じて国民や宗教が二分法的に分離されうるのでなく、むしろ自分の中に「他者」の痕跡を見出さざるをえないほど深く絡み合っていることを明らかにしたかったのではないか。

「わたしは80年代まで、つねに「在日」という回路を通じてしか日本をみていなかった。しかし、今はそうでもない。サイードのように幾重にも引き裂かれ、しかもそのどちらにも帰属できない自分が、どうやってメッセージを発していくのか、そのことを考え続け、実際に行動い移してみたのである。」
[PR]
by mudaidesu | 2005-08-29 23:38 |
痛快・憲法学
痛快・憲法学
小室直樹


民法=国民への命令、○○をしてはならない。
刑法=裁判官への命令、裁判官を縛るもの。○○をした者は、□□の罰金・懲役に処す。
。。。罪刑法定主義・・・憲法31条

刑事訴訟法ーー検察はじめ行政を縛る。

★★裁判で裁かれるのは検察はじめ行政側★★

More
[PR]
by mudaidesu | 2005-08-21 22:21 |
日本国憲法の精神
日本国憲法の精神
渡辺洋三


『国民主権の考え方からすると、国民は一人ひとりが政治の主体でありますから、中立ということはありえないことです。日本語の「中立」というのは、たとえばAとBという人が争っている、その争いにたいして関係のない第三者のCという人が中立だ、という意味です。

けれども、政治についてはすべての国民が当事者ですから、第三者にあたる人はいないわけです。そういう意味で、国民主権の原則からは政治的中立という考え方は出てくる余地がありません。国民は、どんな立場でもいいのですが、とにかくなんらかの政治的立場を持っていなければならないはずです。

ところが日本では「どの立場にも属さない」ことが政治的中立という言葉で語られています。こういうことが通用するのは日本ぐらいではないでしょうか。 日本人は自分の政治的立場を明らかにして議論するということをしません。

私はこれを日本社会の非政治的体質と呼んでいます。自分の政治的立場を明らかにして行動すると、何か片寄っているというようにみられがちです。ほんとうは、片寄っていない人というのはいないはずなのです。

例えば自民党から見れば共産党は片寄っているし、共産党から見れば自民党は片寄っているわけで、つまり、相対的なものです。それが日本では、どこにも属さないことが片寄っていないことになるという変な理解とすりかわってしまいます。

これは非常に大きな問題です。日本の社会で政治運動がたいへんやりにくいということも実はこれと関係があります。政治運動を行うと、片寄っている特別な人間のように見られるという社会的土壌は、根本的に民主主義の歴史が浅いというところからくるのだと思います。このように、日本社会における政治的後進性というべきものが国民の意識の中にもあるのです。』
[PR]
by mudaidesu | 2005-08-20 22:52 |


メインページ