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窪塚洋介と平成ネオ・ナショナリズムはどこへ行くのか


中島岳志

「論座」一月号。以下引用。コメント欄に感想というか、ちょっと思ったこと。


私たちの世代(1975生まれ)は、一見すると「ゆるく」て「まったり」している。しかし一方で、共通する「熱さ」も持ちあわせている。シラケ・新人類世代のポストモダン的「ズラし」を超えて、オルタナティブな価値や社会のあり方を見いだしたいという欲求が広範に共有されている。ひそやかに自己主張も強い。

この世代的な「ゆるくて熱い」心性は、「現在の20代は政治・社会問題への関心度が高い」という各種の社会調査の結果にも表れている。特に環境問題や平和問題へコミットしたいという欲求は強く、各種のNPO活動に参加する者も多い。そして、このような世代的傾向こそが、ここで「平成ネオ・ナショナリズム」として再定義しようとする新しいナショナリズムのあり方を下支えしている。



私の世代のナショナリズムと、ポストモダンが主流だった80年代的シラケ・新人類世代の表象するナショナリズムでは、その性質が大きく異なる。

80年代に、あえて愛国心やナショナリズムを声高に叫ぶことは、かなり奇抜なことであった。少なくとも戦後民主主義的なパラダイムが存在するなか、「愛国者であることを公に自称するのは不謹慎である」という社会的ディスクールが成立していた。そのため、シラケ・新人類世代で「自分はナショナリストだ」と称する人々は、愛国心やナショナリズムを不適切なものとみなす社会のまなざしが確立しているからこそ、逆説的にナショナリストを自称することでアイデンティティを獲得することができた。

これは暴走族(と一緒。)「自己を不適切であると想定し表象する」ことでアイデンティティを獲得しようとすることこそ、80年代シラケ・新人類世代のナショナリズムの形。ナショナリストであることを自称する福田和也が、パンクロック好きであることをことさら強調し、保守論壇で頭角を現した宮崎哲哉が、自己を「札付きの不良」という言葉で既定しようとしていた・・・。彼らは90年代後半に論壇における地位を確立し、「保守」や「ナショナリスト」という系譜に位置づけられ始めると、さらにそこから自己を意図的にズラし、上の世代の「オヤジ保守主義者」たちに対してアイロニカルな態度をとり始めた。・・・彼らの主体のあり方は、ポストモダンを批判しつつ、ポストモダン的な行動様式をとるというアイロニーを内包していた。ここでは、彼らが「真正のナショナリスト」であるか否かが問題なのではなく、「自分はナショナリストである」と表明したい彼らの欲望・心性にこそ、シラケ・新人類世代のナショナリズムのあり方を考察する上で着目すべきポイントがある。

このような「フェイクとしてのナショナリズム」のサブカル的パロディーが、鳥肌実の右翼芸

これは戦中派の精神主義的ナショナリズムや団塊の世代の「革新ポーズで心情保守」ナショナリズムとも、性質を大きく異にしていた。



80年代末から90年代初頭にかけて冷戦が崩壊し、戦後民主主義批判が論壇の主流を占めるようになると、憲法改正や首相の靖国参拝を主張することが必ずしも少数派ではなくなり、「私はナショナリストである」と標榜することが不謹慎でも何でもなくなっていった。・・・ナショナリズムは素朴な形で遍在化し、そのラディカルなフェイク性を急速に失っていった。

一方で、団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニアの「ゆるくて熱い」心性は、90年代のナショナリズムの台頭と共振していった。「正論」や「諸君!」を中心に展開された一連の左翼批判言説は、強力な価値やビジョンを希求する若い世代に「外国の言いなりになるばっかのニッポンって、マジ、カッコ悪いッスよ」「自虐史観ってヤバくない?」というメッセージとして咀嚼され、着実に、そして広範に浸透していった。

さらに、このような流れは、エコロジーや反戦運動、オーガニック、ニューエイジ的スピリチュアリティーなど、以前は左翼運動との関連性が強かった潮流と接合していった点でも新しい。ここではナショナルな価値の追求が「母なる大地へのリスペクト」につながり、環境保護や有機農業へのコミットや、イラク戦争を遂行するアメリカへの抗議活動を生み出しているのである。

彼らはイデオロギーを超えて、「熱い抵抗」に吸引される傾向が強い。小林よしのりのゴーマニズムに心を揺さぶられつつ、高田渡や岡林信康の反戦プロテストソングを熱唱する。そこにある論理的矛盾は、「矛盾」として認識されていない。



窪塚洋介・・・成績優秀。しかし、詰め込み式の勉強に疑問をいだき、まじめな高校生活からフェードアウトする。「毎日毎日やることねぇし、金もねぇ/とりあえずマックかカラオケか/コンクリートの居心地がスゲェ気持ちいい/そんな楽しくてくだらない日常のループ」の中で、彼は「オレハダレダ?」というアイデンティティの問題にぶつかる(「GO・・・窪塚洋介」)。

「自分には個性がないんじゃないかってすっごい考えたりしました。俺の個性って何だろう・・・何が好きなんだろう?」



この「自分探しの旅」は、渋谷のストリート文化やヒップホップへとつながり、01年になって「俺は俺のことが知りたい/俺は俺の生きている世界のことが知りたい」という欲求から、一気にナショナリズムへと接続する。そのきっかけになったのが、・・・映画「GO」への出演


「在日」アイデンティティへの反発の中で「俺って何なんだ!」と叫ぶ杉原(主人公)は、それを演じる窪塚自身と逆説的にシンクロし、映画の主題とは反転する形で、窪塚をナショナリストへと変貌させた。


「在日」であることを過剰に強いられる杉原と「日本人」であることを無自覚的に生きてきた窪塚。一方は「在日」という枠を越えて生きる道を選び、一方は自覚的に「日本人」として生きる道を選ぶことになるが、その方向性は明らかに対照的で、両者の歩みは決定的に矛盾している。しかし、この矛盾は、窪塚の中では「矛盾」として認識されてない。むしろ「社会システムへの抵抗」という心性を共有する主体として、強い一体感をもって捉えられている。

では、「在日」であることを強要する社会に抗った杉原に対して、窪塚は何に抗おうとしたのだろうか?

それは、物質的欲望と権力的欲望を最大限に拡張させたアメリカ的システム(窪塚擁護ではバビロンシステム)であり、それに支配され「腑抜けで虚勢され」た現代の日本である。


窪塚が抗おうとする日本は、「アメリカの東京裁判史観にプロパンガンダされ、韓国・中国に内政干渉される『ヨワヨワ』でダセえ日本」であり、それを乗り越えるために、今こそ「真の日本」に目覚めなければならない。そして、「俺が手に入れるべき『本当の自分』」は「日本が手に入れるべき『本当の日本』」とともにある。



そのような彼が、同時期に「俺の話だ」と感じ、強くシンクロした小説がある。ヒキタクニオの『凶気の桜』

ここに登場する女子高生の次のような言葉は、この映画のコンセプトを象徴している。「私ね、日本っていう国は好き。でも最近の日本人は嫌い。でも、一人好きになった」

窪塚にとって打破すべき対象は「フェイクとしての日本人」であり、「純粋な精神を喪失した欲望まみれの日本」である。さらに、ワールドカップになると「ニッポン」を連呼する「ぷちナショナリスト」たちに対しても、彼は苛立ちを隠さない。ここには福田和也や宮崎哲哉のようなアイロニーは完全に欠如し、屈折のないロマン主義がむき出しの形で存在している。




























彼はこの映画の製作過程で、ストリートサイドからの「平成維新」を訴え、ヒップホップやマルコムXの精神を原動力とする社会変革を構想し始める。不純物を一掃し、「真正の日本」を求める心性。

これは同時に、窪塚をニューエイジ的世界へと誘った。



ニューエイジ的世界観と結合したナショナリズム。

これこそが、現在、20代を中心に台頭しはじめている「平成ネオ・ナショナリズム」のかたちである。ニューエイジ的生命主義からオルタナティブな世界のあり方を志向し、エコロジー、反戦平和、メディテーション、有機農業などへの関心が、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体感を唱えるナショナリズムと結びついているのである。これは窪塚一人の傾向ではなく、広く10代後半から20代にかけて支持を集めるヒップホップやストリートカルチャーの大きな潮流である。


しかし、この窪塚的なナショナリズムのあり方は、何も目新しいものではない。日本はこのようなナショナリズムの潮流を歴史的には経験済みである。・・・昭和初期。

この時期、国柱会をはじめ日蓮主義教団や生長の家、大本教、ひとのみち教団(のちのPL教団)などの新興宗教や橘孝三郎らによる新しい農本主義が台頭し、それと超国家主義ナショナリズムが結びついてったことはよく知られている。

橋川文三は、この超国家主義を「極端なナショナリズム」と捉えるのではなく、「現実の国家を超越した価値を追及する」思想潮流と見るべきことを説き、明治の伝統的ナショナリズムと昭和維新世代のナショナリズムの断絶を強調した。そして昭和初期のナショナリズムが、宗教的存在論の追及を基盤とするホリスティックな世界観を内包している点を指摘


「平成ネオ・ナショナリズム」は、まさにこの昭和初期の超国家主義ナショナリズムのあり方と近似している。石原慎太郎や小林よしのりの言論、「つくる会」の活動の広まりなどを軸として近年の日本ナショナリズムの高揚が指摘されるが、このような旧世代のナショナリズムとはズレる形で、新たな「平成ネオ・ナショナリズム」が形成されつつあると見るべきだろう。後者は前者の言説を否定するのではなく、主体的なデコーディング(読み替え)によって受容し、これまでのものとは異質のナショナリズムを構築している。
# by mudaidesu | 2006-01-03 20:47 | ナショナリズム
イラク人質問題 9  自衛隊撤退


いきなりだけど、僕自身、自衛隊は撤退できないと思った。対アメリカについてをまったく無視しても。「アメリカさまのご意向」という変数を抜きに考えても、自衛隊撤退はちょっとなあだった。だから、余計にあの三人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

もし僕が政策判断する立場にいたら、ようするに首相だったら、撤退という判断は絶対にできなかった。まあ、首相じゃないんだから、もっと柔軟に考えてもいいんでしょうけど。でも、首相にアドバイスする立場でも、撤退はムリと言っただろう。

ほんとにへタレでごめんなさい。


他に何も浮かばなかった。僕のスッカラカンな頭じゃなんにも思いつかない。簡単に自分の答えを出さずいろいろ考えたんだけど、いくら考えても思いつかなかった。でも、もし万が一、世論が大沸騰して首相が撤退を決断なんてことになっても、反対はしなかっただろう。自分から撤退は主張する気にはならなかったけど、撤退全然OKと思ってた。いや、僕が反対しても賛成してもどうなるわけじゃないんですけどね。


一応撤退はできないと思ってても、話聞いてムカツクのは「テロに屈するわけにはいかない」とかしゃーしゃーとしたり顔でいったりする人の方だったんだよね。「撤退しろ」という人の方がはるかに共感できた。悩みながら苦しそうに「撤退はできない」という人には共感したけど。

僕の撤退反対も本質的には「将来のために、他の日本人その他のために(この前置きがとても重要)、テロに屈するわけにはいかない」なんだけど、絶対に「テロに屈するわけにはいかない」という表現は使わなかった。絶対に使いたくなかった。これほど安っぽくて浅はかな言葉はない。というか、チープな言葉になっちまった。思考停止の象徴のような言葉になっちまった。



これは、9条問題でもそう。僕自身迷いまくってグラグラ揺れまくってるけど、どっちかというと(現状の選択肢では民主党的な)改憲派のような気がする。でもね、自民党路線(主にあっち系)や巷の素朴な「攻めれたらどーすんだよ!」「中国がどうたらこうたら」系(今の改憲の論点はそこじゃないよ。論点は二つ。国連安保理決議なしの武力行使(=アメリカの戦争)への関わり方と国連安保理決議ありの武力行使(=集団安全保障)への関わり方)や「外交は武力を背景に!俺たちは損してる!」系の改憲派と比べると、ずっと共感するのは護憲派の方。ここでちょっと書いたけど、改憲派の重鎮の小林節の気持ちがほんとによくわかる。おかしな改憲論に出会うたびに、僕の改憲への意欲が萎える。

最近、特にイラク戦争後、ますますグラグラユラユラしまくり。というか、6、7年前は躊躇なく改憲!とか思ってたような気がする。それから、だいぶ護憲よりにシフトしてきてる。流行に逆行。それに、ここのところの小泉さん周辺の改憲戦略は、靖国その他で中韓とわざとモメて改憲の世論構築をしながらのような気がするので、こういうあやうい「不安を煽る」戦略には乗れない。ついでに、アジアで孤立しているという批判はあまり意味がない。わざと孤立しようとしてるだろうから。

僕は一応、日本人を信頼してるから、最近のファナティックなナショナリズムや「つくる会」みたいのが盛り上がれば盛り上がるほど、改憲への世間の不安感が高まると信じてる。あっち系の人たちは改憲のイメージ悪化に寄与しちゃうと思う(その点、西村真悟の存在は改憲のイメージを著しく悪くしてたので、彼の排除で得するのは改憲派)。実際、僕の中ではそう。改憲派がまともな人たちばかりで、あっち系の人が全然目立たない状況だったら、それこそが護憲派にとっては脅威だと思う。

で、おそらく、改憲の国民投票ではノンに入れると思う。もちろん内容次第だけど、国民投票にかけられる案は僕が賛成可能なものになると思う。で、実際に国民投票やるなら確実に過半数とれると確信してるだろうし、五分五分の世論じゃ国民投票はやらないと思う。そういう状況なら、改憲が決定的な状況なら、反対がいるということを示すためにもノン(たった一票ですけど)。乙女じゃないけど、僕の心は複雑です。

そういえば、videonews.comで、右翼(?)の小室直樹(宮台真司の師匠で丸山真男の弟子)がリアリストぶりを発揮してた。小室さんは日本国憲法や9条を自著ではボロクソ言ってる。この人は近代主義者なんで、その立場からの批判。だから、すごくまとも。その小室さんが、日本人はまだ憲法作れる民度じゃないし、9条あった方が得だから、アメリカさんには「改憲しようとがんばってるんですが、なかなか世論が乗ってこなくて上手くいきません」みたいなことを言いつつ今のままでいいよ、みたいなことを言ってた。保守本流的な議論。



話だいぶ飛んだけど、自衛隊撤退の話にもどると、あーあ、だから、(二年前の)選挙で民主党が勝つべきだったんだよ!とつくづく思った。民主党でも自衛隊派遣したかもしれないけど、それならそれでもっともっと議論が起こっただろうし、いろいろなものが見えてきたと思う。

やっぱりね、政権が自分でやった政策を変えるのはめちゃくちゃ難しい。そうそう自己否定はできるもんじゃない。民主主義がなかなかイケてるシステムなのは、政権交代が可能だから。政策をドラスティックに変えることが可能だから。(ブッシュの一期目のABC(Anything But Clinton とにかくクリントンと違うことをやる)みたいなはアホだけど。)

おまけに、今の日米関係みたいに政権同士の信頼関係のもとでの政策ならとくにそう。政権変えなきゃ、こういう政策は変えられない。悲しいけどそれが現実。せめて、何十万人が官邸・国会取り囲むくらいのことが起きなきゃ。


でもね、駅でやってた、自衛隊撤退署名はした。用事があって行けなかったけど、首相官邸前のデモにも行こうと思った。矛盾してんだけど。

でも、フィリピンがサクっと撤退しちゃったのを見て、ありゃ?と思った。もしかして、撤退可能だった?とか思ったりもした。イラクや中東で働いてるフィリピン人が多いっていう日本とは違う条件もあったけど。おまけに、フィリピンでは世論が撤退支持だったし。というか、フィリピン世論はちゃんと宮台真司(「イラク人質問題 8  動揺」)が言うような他者の境遇への想像力を発揮した。

フィリピンってイスラム系の反政府組織と年がら年中モメてるから、テロとはなんぞやについてのフィリピン人の皮膚感覚は日本人より優れてるはず。テロに関してナイーブな考えは持ってない。フィリピン政府なんてゴリゴリ・リアリストで、めちゃくちゃ冷徹に政策決めてるはず。

となると、テロにうといくせに、知ったかで「テロに屈するな!」とか叫ぶ日本人の言葉がみょーに空疎に感じてくる。ノンキだなあと。なんかそういうのが嫌なんで、自衛隊撤退反対でも、「テロに屈するわけにはいかない!」みたいなありがちな表現は絶対に使わなかった僕だけど、結局中身はたいしてかわらず、ノンキな一人なのかも。
# by mudaidesu | 2005-12-26 22:52 | イラク人質事件
西尾さんのプチ懺悔!?


西尾さんがこんなこと言ってます。

故坂本多加男さんの「歴史は『物語り』だ」という言葉について西尾さんが簡単に語ってます。それぞれの国家はそれぞれの物語を持ち、そこに歴史認識が成り立つ、というのは「つくる会」にとってありがたい、便利な思想でしたと。けど、それはあぶない思想だと。あぶないなと思ったと。

↓転載できないんで、全文は西尾さんのページで。

憂国忌シンポジウム(六) 西尾幹二のインターネット目録


名誉会長さん、いまさら何言ってんですか?なんですが、やっぱりこの人は「ベタ」じゃなくて、『あえて』の人のような気がする。このことについてはまたそのうちに。




話変わって、読んでないけど、

『諸君!』2月号 目次

もし中国(胡錦濤)にああ言われたら──こう言い返せ」みたいのはお約束なんだけど、去年の『正論』6月号を思いだした。「サヨクを論破するための理論武装入門(by産経新聞編集委員)」が表紙で目立ってた。

キーワードは「スッキリ」。スッキリしたい。言われてムカツクから、言い返してスッキリしたい

ちなみに、『正論』6月号は買いました。なんてったって、日本の知性を代表する大手新聞社の「知を楽しむ人のためのオピニオン誌」ですから。イラク人質叩き総集編ですから。

「知を楽しむ人のためのオピニオン誌・正論」6月号




で、『諸君!』ですが、こんな見出しも発見。

中国に物言えぬ財界人よ 「社益」を排し「国益」を直視せよ

なんか、文藝春秋に同じこと言いたいよ。「『社益』を排し 『国益』を直視せよ」と。「『社益』のために、俗情に媚びるな。日本を代表する出版社の誇りはどうした」と。いや、売れるのはわかるんだけど。というか、僕はそれでいいと思うし。別に文藝春秋が「国益」考える必要なんてないと思うし。文藝春秋がどのように儲けようと勝手、とまで言ったら極論だけど。なんだかなあと思っただけだから。

でも、この中嶋嶺雄(国際教養大学学長)さんってこういう人だったのかねえ。彼の昔の中国本(中公新書 1982年)を読んだ覚えがあるんだけど、冷静で結構まともだったような気がしたんだけどねえ(あんまり覚えてないけど)。時代ですかねえ。なんか、最近は古森義久さんと中国叩き本とか出してるし。すっかりバッシング・マーケットに魂を売っちゃったような。



追記: 「靖国問題について」で書いたことを転載としとく。


というか、ちらほらと書いてきたんですが、保守論壇には、中韓や日本の左派に対する憎悪を撒き散らすことをほどほどにしてほしいです。そういうのが「売れる」のでしょうけど、大衆の何かへの憎悪を煽るようなことは、本来、保守主義者こそが、一番嫌うべきことでしょう。そうやって(何かへの憎悪を煽り)大衆を煽動するのは左翼の専売特許であると。保守主義者はそんな下品なまねはしないと。子どもの言い訳、屁理屈のようなセコい正当化も、いいかげんほどほどにしてほしいです。ディベート対策もいいでしょうけど、そんなのばっかりじゃ、魂を揺さぶることは不可能です。

日本の心と知性を代表する保守論壇の方々には、他者への愛情や寛容の精神のあふれる言葉・文章で、靖国論・日本論を語ってほしいです。そういうのが、我々が誇る日本人の美徳でしょう。保守論壇こそがその心・美徳を継承し体現すべきでしょう。保守論壇が育てるべきなのは、憎しみにかられた日本人ではなく、他者への寛容と慈愛の心を持った日本人のはずでしょう。憎しみの心は日本人の文化でも伝統でも「誇り」でもない。寛容の精神こそが日本人の文化であり伝統であり「誇り」のはずでしょう。他者への憎悪を煽るのをやめ、日本への愛を語ってくれ。
# by mudaidesu | 2005-12-26 21:48 | ナショナリズム
国連と貧乏国とインド人  極妻とノブオと大島渚と藤竜也


国連平和維持活動等で一番、人を出してるのが南アジアの三国。

Monthly Summary of Contributors of Military & Civilian Police Personnel  UN

↑のページの「ranking(2005年11月)」を見るとわかるけど、人を出してるのは貧乏な国ばっか。南アジアやヨルダンやナイジェリアやエチオピアやネパールとか。

僕の知ってたインド人とかパキスタン人とかって、国連の話が好きなんだよね。というか、紛争解決や集団安全保障や平和維持活動や平和構築の話を真剣に議論する。やっぱ、当事者意識があるんだよね。そいつらはエリートもエリートで兵士を送り出す側で送られる側には絶対ならないけど。それでもノブレス・オブリージュを感じた。表現が適切じゃないかも(笑)。

インド人男性たちのウケる話があって、知り合いにたくさんインド人がいたんだけど、こいつら最高。1人の家に遊びに行ったら、地獄絵図を目撃。5人のインド人の男が部屋暗くして、パンツ一丁で、エロビを見ながら、ビール飲んで、素手でカレー食ってた。惚れそうになった。

こいつら、20前後のくせして、おっさんみたいなビールっ腹。みんなエリートの息子。親父が国連職員だったり、インドの国連代表部の人だったり、どっかのインド大使だったり、大学の先生だったり。あんな腹してるくせに、テニスが上手かったり。で、こいつらの作るカレーがまた美味い。

で、こいつらにもちゃんとインド人の彼女がいるんだけど、テニスするときは、女たちは脇でおしゃべりしてるだけなの。テニスやらないの。いやー、カルチャー・ショック。


ところで、GYAOで 「極道の妻たち」の一作目を観たんだけど、なんか感動した。なぜかって、「ビーバップ・ハイスクール」でノブオ役だった俳優が出てたから。城東の山田役(たぶん)の人もいた・・・。同じような演技だった。ついでに清水宏次郎まで出てた。

この作品は前にも観た記憶があるけど、やっぱ岩下志麻いいよ。かたせ梨乃はウザイけど。


ついでに、やくざもの繋がりで「ドンを撃った男」も観た。 もうGYAOでは観れないけど。こんな映画。これVシネのようだけど良かった。おもしろい。実在した人をモデルにしてるようだけど。

というか、極妻もこの映画もそうなんだけど、数十年前はやくざネタがテレビで流れてたの?なんか、映画ではニュースやワイドショーが抗争について詳しく報道してんだけど、最近はそういうのないよね?映画ではやくざが記者会見とかやっちゃってるし。昔は、何々組がどうしたこうしたってのがお茶の間のネタになってたの?


ついでだけど、大島渚の「愛のコリーダ」もGYAOで観れますよ。阿部定の話。無修正じゃなくてボカシ入りまくりだけど。ほんとニッポンはへタレ。映画に対する冒涜。僕はちゃんと修正してないのを何度か観ましたよ。つか、これフランス映画と言えるし。ほんとニッポンはへタレ。せっかく藤竜也が全開でビンビン頑張ってんのに。ニッポン情けなさすぎ。

この映画はすごい好き。すごいですよ。なにがすごいって、エロビと同じ描写なのに、全然エロビじゃない。エロいんだけど、エロさが違う。陳腐な言い方すれば、芸術。絵は全然美しくないんだけど、なんか美しい。ほんとすごい。大島万歳!

この作品ほどダルイ気分になれる映画はない。なにもかもどうでもよくなる。究極の堕落に憧れる。
# by mudaidesu | 2005-12-23 01:43 | 世界
正義論/自由論 寛容の時代へ


土屋恵一郎


正義と自由の問題。異なる利害と権利、価値観をもつ者たちが、どのようにして共に社会を構成し、共に生きることができるのか。一つの中心ではなく、多くの中心をもった、多焦点の社会で、複数の価値観や、人間の物語が語られる社会とは、いかなる社会であるのか。

ジョン・ロールズの正義論をとりあげることになるのは、アメリカ自身が、正義と自由の実験場所であり、思想そのものであったから。多数の人種、文化、宗教、性差別、そのすべての問題について、アメリカはまともに答えを出さなければならなかった。

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# by mudaidesu | 2005-12-23 01:16 |


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